Archive for the ‘駄文’ Category

2013_07_24 つぶやき禁止

木曜日, 7月 25th, 2013
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チケットを二枚もらった。

正確に言うと興味はなかったが、
捨てるのは勿体ないので引き取ったということになる。

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菊地成孔「あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミル コだの言っていた筈だ」刊行記念
あなたに前の彼女がいなくても、PRIDEもK-1 も無くなっていた筈だ

http://tcc.nifty.com/cs/catalog/tcc_schedule/catalog_130629204292_1.htm

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自由に話すのでと、
「つぶやき(tweet)禁止」とのこと。

僕には理解できないトークがほとんどで、
つぶやき情報を漏れ流すことはできない。

但し興味深い発言もいくつかあった。

正確には思い出せないので、
自分の言葉で理解した内容を伝えることしかできないが、
その中のひとつを紹介したい。

裏話は推測だから嫌いで、
物理量で物事を話すのが好きだと、
企画した店側の予想に反し、
満員どころか席に余裕のある今回の聴衆の数や
いつもとは異なる男女比や客層(雰囲気)に対し、
自分のこのイベントに対して取った宣伝アクションを自己評論していた。

そんななか、プロレスへの愛着を込めてであろうか、
「痛みの物理量は人には伝わらない」
といったようなことを何度か言っていた。

とても含蓄に富んだ言葉に聞こえた。

リスク - 阿佐ヶ谷でホルモンを食べる

土曜日, 3月 2nd, 2013
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「一般的に食肉の生食は食中毒のリスクがあります。そのため、子供、高齢者、食中毒に対する抵抗力がない人は食肉の生食を控えるようお願い致します。」

弱い人は何かと控える行動をとるのが無難?

2013年01月24日/都心のラーメン屋

木曜日, 1月 24th, 2013
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今日は昼間に都心に行った。
いつもの場所よりもと思い、
現地に着いてからラーメンを食べることにした。

12:00到着。

早めにと思い、
この時間に着いたが、
明らかに間違っていた。

人の並ぶ食堂を片目に
適当な場所のコンビニエンスストアでの食料調達を視野に入れ始めたとき、
中の様子をうかがうことのできない中華料理屋が見えた。

扉を開けると、誰もいなかった。
この時間に、このオフィスも大学もあるエリアで
目の前に展開されたこの光景に少し恐れは感じたものの、
とりあえず座ることにした。

ラーメンは2分ぐらいで出てきた。

強力にお勧めする要素は何もなかったが、
別に拒否して、この店の空にしてやろうと思うような味ではなかった。
さっき横を過ぎた人の並ぶ店の味と
恐らくはたいした差はないのであろうと想像した。

何人で働いているのかは分からないが、
店員たちは、ゆったりとその時間を満喫するが如く雑談していた。

しばらくすると、客が何人か入ってきた。

まだ店の広さを考えると寂しいものであったが、
それまでは鳴りを潜めていたのであろうか、
女将がてきぱきと声を出して店をコントロールしはじめて、
そこの空気が少し引き締まってきた。

僕が支払いを済ませ外に向かおうとすると、
女将が定員にドアを開けて外にたてと指示をする。

そんな行為が慣れていないが如くはにかみんだような彼に見送られながらその店を出た。

人が並ぶ並ばないの差は、どんな誘因の差から起こるものなのか。
店の人はいつも考えていることなんでしょうが。

FSC認証紙のティッシュペーパー

土曜日, 1月 19th, 2013

ティッシュペーパーに書いてある。

—————————————–

FSC認証紙を使っています。

木を、森を、絶やすことなく、未来へ残していくために。

この商品に使われている森は、 すべて適切に管理された森の木でつくっています。

—————————————–

 

いろいろと難しい。

 

僕のように無知な人間は

「FSC認証紙とは何だろう?」

という疑問もあったりするが、

僕にとっては凄すぎる表現があったりする。

 

- すべて適切に管理された

 

・全て、なんていうことがあるんですね

・全て適切に、と大衆の目に触れる商品で宣言できる度胸がすごい

・森は人による適切な管理の下、生き残ることができるのですね

 

「美しい地球を子供たちに手渡すため、ぜひあなたの力を貸してください」 ~ WWF

 

正しい活動、処置をしているのだとは思いますが、

いつも、誰のためとか、人事のようにきれいごとを語る表現は、

どうにも気持ちが悪く感じてしまう。

 

種の存続という視点から、

遠い昔から「子孫のため」というのは自然に湧き上がる感情であったのかもしれないけど、

自然とか動物の立ち位置、それを含む表現というのは違っていたのではないかと、

想像してしまいますが、どうなのでしょうか。

 

ball

土曜日, 12月 29th, 2012

「松井秀喜引退」、というニュースがある。

 

昔は野球好きであり、

スポーツをラジオで聞くというてんで理解のできないことを

学生時代にはしていた記憶もある。

 

今の事情は全く知らない。

 

昔を懐かしんでということであろうか、

少しその松井の引退に絡んでニュースを見ているうちに

野茂の動画を見るというように手は動いていた。

 

野茂が投球する。

「ball」

と審判の声。

 

「そういえばボールってどういう意味?」

 

英語であると思うが、

もしそうであれば、それは「ball」というスペルであると想像するが、

それは勝手な思い違いであろうか。

 

ballとは、

まさにその野球という球技自身で利用される

硬くまん丸の物体であり、

ある人が投げその物体を、

それを迎える形である人が立ち棒を持ち引っ叩く対象となるものであろうか?

 

もし、僕が間違っていないのであれば、

「ball」というのはその野球という事象の一つの中心となる要素である。

それをstrikeに対する一方であり、

見逃す対象とする

という言葉の使い方をしているということになるのであろうか?

 

野球帽を被っていたのかどうかは忘れたが、

いずれにしても、授業の後、バットを振り回していた時代がありつつ

たとえ、その場が授業後の路上や小さな公園でこじんまりと開催される催しであったとしても

心をこめて心を、体を動かしていた時代があったはずの私。

 

たとえ、それが公園での単なる遊びであったとしても

その私が、今になって何故そんなことに、分かっていないことに気づくのであろうか?

 

分かっていないのは事実であり、仕方ない。

 

今、考えてみる。

 

「ball」、それはまさに本質であり、

あまりその本質は、うっとおしくもあり、

大多数の幸せを妨げる必要はなく、

語るべきではなく、はずれ物として除外すればよい。

 

「ball」、それは「strike」される価値もない

成長のかけらも感じられない物体。

 

「strike」されれば、ある見せ場はあるわけであるが、

それはただの「ball」でしかなかった。

 

採石場

日曜日, 12月 23rd, 2012

町の外れにぽかりと開いている。

 

とりあえず自分でも掘ってみるか。

まずはスコップを持ち出すか、

それとも何らかの機械を生み出す方向に進むべきか。

 

結局、人間が生を受けて生き長らえ、

何かしらを積み重ねた結果、

今の僕には到することができないこの穴があるんだ、

 

という陳腐な結論にしかならない。

 

数百万年かけてこの穴を掘ったと言えばいいのか

この穴を掘るために数百万年かけたと言えるのか。

キルギス ビシュケク

いつものように、ここはさっさと通り過ぎた。

祝你平安

土曜日, 12月 22nd, 2012

久しぶりに自分のPCの音楽のフォルダを眺める。

Faye Wongを発見。

昔、聞いたな、と思い出し一曲聴き始めた後、
何故だか彼女の曲を先へと聴き進めるのではなく、
そういえば、と思い出したのがFaye Wongと時期によく聞いていたこの曲。

「祝你平安」
(http://www.youtube.com/watch?v=_41Pj5u2-TI)

さほど難しい歌詞ではないと思うが、
残念ながら、今の僕が聞くと
はっきりと理解できない箇所が多々あり。

ぼんやりと理解を口にするのであれば、

今は遠くにいるあなたの幸せを、平和な生活を祈る歌でしょうか。

間違っているかもしれませんが。

「あなたはまだ収入少なく、出費の多い生活を送っているのでしょうか」

こんな風に、あなたを思い描く場面があり、
それには思わず笑ってしまいました。

ただ、これは自分の生活を基準とした見方なんだろうと思い直しました。

給料少ないわりには、外食もするし、
気軽にお酒を飲んでしまったりしているしようもない自分への中傷。

自分の少ない稼ぎで、
家族を、親戚を何とか支えている姿のあなたを思い起こしているのかもしれない。

中国で宿泊したゲストハウスの相部屋で知り合った男性を訪ねに
農村に行ったことがあります。

彼が書いてくれた住所の紙を右手に、
その腕を突き出し、
その辺にいる男たちにそこに書かれている場所への行き方を尋ねると、

「親戚を訪ねに、探しているのか?」

と聞かれました。

音楽は人と人とをつなぐ架け橋となる力を持つようなことはよく言われます。

本質的なところでは、
無理解・誤解での交流を構築させる怖さがあると思っていますが、
一つのきっかけとして、大きな力を持っているのでしょう。

使い方は気をつける必要があるのはもちろんのこと。

人と人をつなげるのは必ずしも相互理解とは限らないと思います。

何故だか肯定的な感触を抱いているだけのことが、
秩序であったり、一つの集まりを作り出す助けになるでしょうから、
意外と社会全般としたら無難なことであるのでしょう。

そんなわけもあり中国の曲を紹介しました。

秩序とは関係ありませんが、
哲学的な感情とは違うものを媒体としたつながりのきっかけになるかもしれません。

もしかしたら、お互いに全く理解していないかもしれませんが。

ところで、先週の家に招いた友達が、
日本と中国の関係はよくなるはずだと力説していました。

彼が言うには、

「中国と日本の長い歴史の中では、友好の時間がほとんどである。
今のいがみ合いは、長い時間の中で見ればほんの100年超のこと」

僕は別に国という言葉に憎しみやら好みやらを持つ感覚は有しないのですが、
そういう見方はいいな、と思いました。

出稼ぎのため息子が故郷を離れているあの農村の男が、
僕を無理解な人間と評しながらも
僕に一時の住居を与え、
去るときには再来を呼びかけてくれたことを思い出しました。
http://www.broken-robot.com/ja/c_red.html