Archive for 7月, 2013

2013_07_24 つぶやき禁止

木曜日, 7月 25th, 2013
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チケットを二枚もらった。

正確に言うと興味はなかったが、
捨てるのは勿体ないので引き取ったということになる。

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菊地成孔「あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミル コだの言っていた筈だ」刊行記念
あなたに前の彼女がいなくても、PRIDEもK-1 も無くなっていた筈だ

http://tcc.nifty.com/cs/catalog/tcc_schedule/catalog_130629204292_1.htm

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自由に話すのでと、
「つぶやき(tweet)禁止」とのこと。

僕には理解できないトークがほとんどで、
つぶやき情報を漏れ流すことはできない。

但し興味深い発言もいくつかあった。

正確には思い出せないので、
自分の言葉で理解した内容を伝えることしかできないが、
その中のひとつを紹介したい。

裏話は推測だから嫌いで、
物理量で物事を話すのが好きだと、
企画した店側の予想に反し、
満員どころか席に余裕のある今回の聴衆の数や
いつもとは異なる男女比や客層(雰囲気)に対し、
自分のこのイベントに対して取った宣伝アクションを自己評論していた。

そんななか、プロレスへの愛着を込めてであろうか、
「痛みの物理量は人には伝わらない」
といったようなことを何度か言っていた。

とても含蓄に富んだ言葉に聞こえた。

2013_07_21 深大寺の鬼燈(ほおずき)祭り、表参道

火曜日, 7月 23rd, 2013
通勤のバスの広告で、

「深大寺の鬼燈(ほおずき)祭り」
があった。
聞いたことのないお祭であったが、
近年、始まった町を盛り上げる人との試みのようである。
浅草で行われるこのお祭が有名であるが、
いつものごとく、これが何であるのかよく分からないので、
調べてみる。
辞書のように簡単に記述しておくとするのであれば、
次のようなお祭であるらしい。
「7月10日に参拝すると、それは四万六千日参拝したことと同様の功徳となる」
そんなわけで人が集まり、そこで儲けようと人が集まったのであろうか。
そして、薬草として評判であった「ほおずき」を売る市が浅草寺に立つようになったそうである。
深大寺は7月19日(金)~21日(日)の3日間開催されていた。
違う日にちでの祭となり、
浅草のものとはまた違う意味合いがあるのかもしれないし、
同じ日の開催ではとても太刀打ちができないと思ったのかもしれない。
ともかく、深大寺に行くと、
鬼燈(ほおずき)祭りは比較的こじんまりとした印象を持ったが、
屋台がならび、またスタンプラリーとして地蔵などの前にはスタンプが置かれたりと、
賑やかな場所となっていた。
その後知り合いの展覧会を訪問しようと表参道に向かった。
展示会の風景
都心は電車の行き来をすることはあっても、
普段は街をぶらぶらとすることはない。
展示会場を出ると、
もう暗くなり始めていたため、今回も散策したわけではないが、
表参道駅前の神社にだけ入ってみた。
周りの光景とは整理のされていない別に古ぼけた場所であったが、
中年に差し掛かった女性が早足で参道を進み、
祈りを捧げると、また急ぐように去っていった。
何か仕事へと向かっていくような緊迫感を感じ、
その祈りの場所はその華やいだ都心に溶け込んでいるようであった。
帰りに選挙投票所に寄ったため、
いつもとは異なる帰宅路を歩いた。
そこにはポツリと電話ボックスがあった。
近年、ほとんど路上の電話を見ることがなくなったが、
そこは車椅子用で少し大きめな形状であった。
たまには部屋を離れそこで一人座り電話する人の姿を想像した。

2013_07_14 「杉並区 史跡 散歩 地図」 Gコース 阿佐ヶ谷界隈

水曜日, 7月 17th, 2013
昨日訪れた尾崎熊野神社にもう一度行きたいと思った。
曇り気味であり、その場にいた狐をもう少し明るい陽の下で会いたいと思ったからである。
この三連休の中日、それだけで終わってはと、
「杉並区 史跡 散歩 地図」を見る。
寄り道することを考えると長距離歩行は無理であろう。
興味を引かれた場所はあったが、
7キロほどと本日だけで全てを回りきるのは難しいであろう。
すぎ丸の終着地である阿佐ヶ谷。
その阿佐ヶ谷にもコースがあり、また3.8kmと手ごろな幅である。
目的地を決めて、ドアを開ける。
結局は今日も曇り空であるようであった。
リュックの中は、
昨日は持ち出した折り畳み傘は戸棚へとしまったようであり、
空っぽであった。
携帯電話で天気予報を見ると、降水確率30%
これであれば大丈夫、とそのまま締めた鍵を開けずにバス停へと向かった。
昨日と同じようにバスで久我山駅に行き、
そこから電車ですぎ丸の発着地である浜田山に向かった。
尾崎熊野神社の参道には一台の自転車も止まっていなかった。
単に何か側にある商店なりの都合だけかもしれないが、
やはり日曜日は休みの日であり、
行楽地はまた別なのであろうが、
住宅街の店は閉まるし人の動きはなくなるもんだと、
一人後から入ってきた人が座ったにしろ、
土曜日の昨日よりも何故だかそこのベンチは寂しく見えた。
そして、すぐに本日の目的地である阿佐ヶ谷へと向かった。
個人的には杉並区役所があったり阿佐ヶ谷JAZZ Street等イベントがあれば訪れたりと、
近年は阿佐ヶ谷は馴染みのある町であると思っていた。
ただし、そうは言っても
地図に書かれている杉並区教育委員会推奨の地にはどこも訪れたことがなく、
細かく書かれていない地図を見て目的地へと向かったつもりでも、
どうにもたどり着くことができずに、
終いには携帯電話の地図を頼りに始めの土地であり、
田んぼが広がっていた時代には農耕の神が祀られていたという馬橋稲荷神社へと足を踏み入れた。
結局は阿佐ヶ谷は何も知らなかったわけである。
決まったルートを歩いていただけであったので当然と言えば当然の帰結ではあるのだが、
大きな神社があるとは想像したことがなかった。
今まで何も見てきていなかったことを悔やむ気持ちもありつつ、
すでに時間は限られており、地図に書かれている先へと進むべく、
駅の方面へと道を翻し戻っていった。
駅に程近いところで頭に、ポツリと何かが触れたのを感じた。
「鳥の糞ではなかろうか?」
と頭に手を当てる。
ポツリポツリと雨が振り出したようである。
目の前は舗装されていない小道であり
地図によると欅屋敷と呼ばれる屋敷があった。
都合が良いことに、
その敷地内から頭を飛び出している樹木の下の土は湿ってはいるようではなく、
しばらくの間、その下へと潜り込んだ。
かなりの豪雨である。
木の陰ではしばらく優雅に外を眺めている余裕があったが、
数十分は経過したのであろうか、徐々に上から水がポトリポトリと垂れてくるようになり、
前の建物の屋根の下へと移動した。
雷の音がゴロゴロと鳴り響いていたものの、
どうにもこうにも事を済ませないというか、だらだらと時間が過ぎていく。
もう5時に近い時間となっていた。
地図を見ると、距離的にはまだ半分ほど残っている。
雷が地上へと落ちると同時に雨が止むわけではないであろうが、
何かもったいぶっているようで焦りを感じてきた。
そんなことを考えているうちに、
一人の人が先を通り過ぎ、
そして目の前にある土面に出来ていた水溜りの面積が徐々に小さくなっているのに気がついた。
ずっと木を眺めていたため、雨が止んだことにしばらく気がつかなかったのかもしれない。
木の下では雨が降り始めるのも遅いが、振り終わるのも遅いのかもしれない。
次の目的地である阿佐ヶ谷神明宮に向かう。
天照大御神を祀るその神社は、とても綺麗に整備されていた。
結婚式がよく催す場所となっているのであろうか、
挙式プランの案内の冊子があり、また参拝の栞を読むと次のような紹介文が書かれていた。
「約三千坪の境内には、巨木も多く、都内最大級の伊勢神宮勧請の御社であります。
 一方JR阿佐ヶ谷駅から徒歩二分の交通至便の地にあるため、年間を通し数十万の参拝者で賑わいます。
 また近年は、能を始め骨董市、植木市、伝統芸能の奉納、あるいはバリ舞踊際や杉並区主催のジャズストリートの会場になるなど、地域のコミュニケーションの場として広く親しまれております。」
神社や寺院等にある紹介文は、
説明するものでありながら、僕には難解なことがほとんどあり、
辞書なしには読みこなせないことがほとんどである。
それは僕が無知であるためであり、
他の人々は「うんうん、そうだね、よく分かる」と即時に理解しているのかもしれない。
いずれにしても、
このような大きな施設を訪問したときに、よくあからさまに感じることは、
共同体の中である種の存在感を継続して保っているか、
もしくは保とうとしていることである。
次の目的地の世尊院に向かう。
先へと焦っていたためであろうか、
神明宮を出てすぐ目の前にあるはずものところを横へと残して通り過ぎてしまうと、
また、雨が降ってきたため、商店の前に隠れることにした。
雨が止むともう五時半になっていた。
いつもそうなのか時間切れであったのかは分からないが、
世尊院は閉じていた。
駅前にあるこのお寺には気持ちさえあれば、
また縁があると先へと進む。
次の目的地である法仙庵。
壁の向こうには墓地があるのが見えたが、
一般には公開されていないようであった。
おそらく見学させて下さいと断れば見せてもらえることと思うが、
昨日の神社と寺が一緒になり近所に人々行き交う敷地を思い出し、
ここは僕の場所ではないと駅前から少し離れた地図に書かれた最後の2つの場所、
「お伊勢の森」と「阿佐ヶ谷北五丁目四十二番所在民間信仰石造物」へと向かった。
地図によると大通り沿いの「お伊勢の森」バス停そばで、かつ中学校の側にあるはずの「お伊勢の森」。
確かに間違いなく辿りついたはずであった。
そうは言っても、だいたい「お伊勢の森」といっても、
それが何であるのかさっぱり分かっていなかった。
結局何を見ろ、という主張であるのかは分からないが、
日も暮れて足も痛く探す気力がなかったので、最終目的地である「民間信仰石塔」へと進むことにする。
そして先へと歩み始めると次の看板がかかっていた。
================
お伊勢の森
区立杉森中学校からお伊勢の森児童遊園にかけての一帯です。
阿佐ヶ谷北1-25にある阿佐ヶ谷天祖神社の旧社地です。
・・・
また、その後、建久年間(1190~1198)
この土地に住んでいた横井兵部という人が
伊勢神宮に参拝に出かけ、勢州(今の三重県)能保野に泊まった夜、
大神宮のお告げがあり伊勢の宮川から持ち帰った霊石を、
社に安置して御神体にしたとも書かれています。
祭神が「天照大御神」で伊勢神宮と同じところから、
土地の人は旧社地を「元伊勢」と、呼んでいました。
その後も、「お伊勢の森」といって親しまれています。
また、近くにあった電信隊の兵士が、ラッパの練習にきていたりしたので、
「ラッパの森」ともいわれていました。
・・・
今では貴重な存在となった特別天然記念物の「トキ」がすむほどに、
静かな森であったようです。
================
そんな場所であるから、木を切ることにいまさらながらに遠慮しているのであろうか?
いや、おそらく人に見られると誰もが遠慮がちになっているだけなのであろう。
ところで、この文を読んで、歴史を読み解くことの難しさを感じる。
この短文を持って理解しようとするのが間違っていると言えばよいのか。
土地の人が元伊勢、お伊勢の森、ラッパの森と呼んだ時間は身近な時間軸であると、
文面から想像したが、もしそれが正しいのであれば、
その時代にそこから離れた建久年間の歴史を掘り起こしたように思えたがいかがであろうか。
だからどうだ、というわけではないが、
やはり近代の出来事の方がその姿が想像しやすいのも確かであるし、
またその時代に構築された景色、強く残された人の言葉の中に生きているのかもしれないと思った。

2013_07_13 「杉並区 史跡 散歩 地図」 Dコース 成宗・田端両村界隈

火曜日, 7月 16th, 2013
「歩きながら元気と文化が生まれる町。すぎなみ」

以前、妻がどこからか持ってきた地図がこれだ。
「いいね、行ってみようか」
と言いながら時は流れ、一人になり、また暑い季節になった。
クーラーのある部屋を離れる意義というか論理を見出せないでいたが、
地図を開いてみる。
何を仕出かそうと企んでいるのかはしらないが、
その地図には杉並区で歩くべき道がルートとして14筋ほど設定されており、
人々がそこを歩むと、杉並区の教育委員会は、
「すぎなみの魅力を再発見していただくと共に、
 健康な生活が続けられるkとおを願っています」
ということである。
記憶にはないが、
「Dコース」成宗・田端両村界隈が
オレンジ色のマーカーで記しづけられている。
人に敷かれた線に乗って歩むことに不愉快な想いがあるが、
かといって別に自分で何かを探すつもりもなかった。
「すぎなみ」と漢字ではなく、平仮名で表記する意義について考えながら、
地図に書かれている「Dコース」の出発地に程近い「善福寺川緑地公園前」までの経路を
Googleで調べて出発した。
井の頭線浜田山駅から、
浜田山行きのバス-けやき路線「すぎ丸」-に乗り出発した。
「すぎ丸」というのは数年前にできた路線で、
井の頭線と中央線の駅を南北に結ぶ3つのほどあるバス路線である。
経営状態は知らないが、
鉄道の通わない南北の通路を結ぶ路線として活躍しているのかもしれない。
住宅街の狭い道をバスとは思えない軽快さで右へ左へと舵を切りながら先へと進んでいく。
Googleで調べた所用時間を考えるとこのバス路線上に目的地はあると判断していた。
浜田山から随分と北へ進んだはずだが、
「善福寺川緑地公園前」
というバス停は現れる様子がない。
「善福寺川緑地」と少し何か足りないような気がしたが、
これ以上先に進んでしまってはいけないような気がしたので、
ボタンを押してバスに止まるようにお願いして外に出ることにした。
「杉並区 史跡 散歩 地図」を見ると、
だいぶ北に来てしまったようである。
地図の示す「善福寺川緑地公園前」というのはだいぶ離れた場所にあるようである。
その地図に示すルートに従うことにどれだけに意味があるのかは分からないし、
それに従うことは不愉快であった。
海外旅行では、
「地球の歩き方」という人を舐めた本に憤りを感じつつも、
結局はそんな類の本を持ち歩いていたわけであるが、
「杉並区 史跡 散歩 地図」によると、
出発地点の近くに見所があるようで、
後悔するかもしれないと、結局は出発地点へと向かった。
地図の出発地点には、少しばかり長ったらしい名前があり
「成田東三丁目所在民間信仰石造物」
と名づけられているそうである。
わざわざ形式ばった名称が必要かどうかはさておき、
このように布を被せてやらないと無くなっていくものが世の中の大多数なのであろう。
また、バスを降りたところまで同じ道を戻ってくることを想定すると、
何だか癪に障ったが、ともかく地図にある再び善福寺川と交わる地点までたどり着き、
尾崎橋を渡り左に折れて進むと、その石造物前に到着した。
この杉並区史跡散歩のために認定された場所なのであろう、
杉並区教育委員会の準備したと思しき説明版がある。
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民間信仰石塔
「ここに建立されている石造は、向かって右から元禄十一年(169x)・・・・の地蔵塔、宝暦十年(1960)十月吉日銘」の馬頭観音塔、宝暦三年(1953)十月吉日銘の地蔵塔です。
これらの石塔は、何れも「念仏講中」「念仏講中拾六人」等と記され、ここ武州多摩郡成宗村白幡の人々が、現世での幸福と来世の往生極楽を願い、講を組織し、建立したものであることが分かります。
(略)
これら石塔を建立した白幡念仏講中も、昭和十五年頃までは、毎月この場に集い、念仏供養を行っていましたが、現在では毎年十月十五日に供養会を盛大に行っています。
昭和六十二年三月 杉並区教育委員会
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良くは分からないが、このような説明を読むと、
地蔵も庚申塔も結局は同じものに見えてしまうが間違いであろうか?
自分の立つ位置を現実のものと定義するために世界を作り、
そこでそうは言ってもやっぱり無を恐れてなのか現実だから怖いのかは分からないが、
現世と来世の幸せを願い、そして人が集い語り合う。
そこを離れ次の場所、曹洞宗宝昌寺へ足を踏み入れる。
日本において仏教と神道の境が混沌としている部分があるのはよく見受けられるが、
ここは奥を見ると、豊川稲荷の旗がはためいており、同じ敷地内に神社と寺院があるようであった。
奥の神社側にも入り口があるのか、
子供達がこちらに向かって寺院の家屋のベルを鳴らし友達に会いに来る。
ともかくそこは町にある友達の家であり、
その家への訪問者であったのかもしれないが交通路でもあるようで、
明らかに参拝、お墓参りに来た人ではない人が、たまに私の前を通り過ぎていった。
私も人々に倣い、神社を通り過ぎ道に出ると
元は地域の境であったという三年坂を昇り次の目的地である尾崎熊野神社へと向かった。
境内への参堂は自転車置き場となっており、
用事を終えた親子が自転車に乗りそこを去り、
一方中に入ると、二名の男女がタオルを水に浸し汚れた体を清め、
そしてベンチに座り休んでいた。
地図のその先を見ると、目的地はどこも神社か寺院であり、
どこもよく見ることでは、無視された場所に見えたりするが、
ふと、あるが祈る人が現れ、またイベントの案内が掲げられている。
誰かが残そうと思ったので残ったのかもしれないが、
どこにでもある見慣れた空間であり人が集う場所として残りながら、
何故だか一つ間には川が敷かれた空間にも見え、
どこも同じ光景でありながら、どこも同じように新鮮に写った。

2013年07月07日/七夕

日曜日, 7月 7th, 2013

午後三時ごろであろうか。

 

少々身体の調子が悪かったこともあり、 家とスーパーの行き来だけで土日が過ぎ去ろうとしていた。

 

「今日は七夕らしいけど、一日部屋で完了していいのかな?」

 

自分にしては、この土日は最低限必要でやらざるを得ない洗濯機のボタンを押して、しばらくしたらその機械の中から服を取り出して棒に引っ掛ける作業だけでなく、 浴室の防カビ剤を購入して使用したので、自分としては家事が好成績で完了したような気がする。 これを以って合格としようか。今まで、七夕で何かしたことも、考えたこともないし。

 

さて、妻が実家に帰っているので、 来週の食事はどうしようかと考えてみる。

野菜が足りないことに気がつき、どうやら外に出てスーパーに行くのが無難であるようである。

 

 

もう、夕方であった。

スーパーは暗くても問題ない。 僕には七夕と神社の関連性の有無は知らなかったが、 とりあえず近所の神社に向かった。

 

 

 

 

神社の境内にある七夕の説明冊子を見る。

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夏の行事を楽しもう! 七夕(たなばた) 7月7日

七夕は食物の成長を感謝する収穫祭と、 お盆に棚機女(たなばため)と呼ばれる娘が御霊の 衣服を織り棚に備え、村の穢れを祓う という二つの行事に由来しています。 この二つに、大陸から伝わった 織姫(織女星(しょくじょせい))彦星(牽牛星(げんぎゅうせい))が 一年に一度だけ天の川を渡って会えることが 許されるという「星まつり」と、 織物上手だった織女星にあやかり裁縫の上達を 願う行事「乞巧奠(きこうでん)」が合わさって、 現在のようなかたちになりました。

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この説明は、僕には正直理解できないことが多くありインターネットで調べてみたが、 依然としてさっぱり分からないため、今後の宿題としてみたいと思う。

 

それで終わってもいいのだが、とりあえず、今回は今日の段階で一つだけ感じたことを述べておきたいと思う。

 

 

「ウェキペディア フリー百科事典」で七夕について見てみると、 短冊に願いを飾る風習の起源について、次のように記述されている。

 

「夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもの」

(ウェキペディア フリー百科事典 七夕より)

 

 

インターネット上でほんの少しだけ検索して程度では、 夏越の大祓(おおはらえ)と七夕を関連づける根拠等は他には見つからなかった。

 

そこで、関連付けるのは止めて、基本的に僕が理解していない大祓に着目してみる。

正確にはどのように定義すればよいのか分からないので、 結論だけ簡単に言えば、 大祓とは誰もが時の経過と共に蓄積されていく汚れを祓う行事であり、 そこで身を清らかなものとするために茅の輪くぐりを行うそうである。

 

また、ここでは、ある神社の大祓の説明を紹介しておきたいと思う。

「夏越の大祓」「七夕」という二つの単語でGoogle検索すると、 始めに出てくるのがこの神社、遠野郷八幡宮であるが、 そこにはこんな説明が記述されている。

 

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夏越大祓はこれから始まる暑い夏を無事に乗り切れる様、祈る行事です。 本殿前に設置された茅の輪を「みなづきの 夏越の祓 する人は 千歳の命延ぶというなり」「蘇民将来」と唱えながら3周します。 罪穢を祓う人形流しも行われます。茅の輪と人形は6月中旬に設置され、毎年、6月30日の夕刻には大祓詞奏上が行われます。

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この文章を読んで、始めは安易な説明と感じてしまった。

 

ただ、少し考えると、 この行事について何も知らないので想像しただけに過ぎないが、 この説明は難解な言葉の定義よりも適切な内容であるかもしれないと思った。

難しい言葉を利用せずに説明すれば、 まさに「これから始まる暑い夏を無事に乗り切れる様、祈る」行事なのであろう。

おそらく、これは人の生活から産み出される様々な他の行事と全く同じなのではないだろうか?

 

実りを待つ人、 豊作を願い、この夏が無事に乗り切れることを願う。

そして人には軽く飛ばされてしまうような願いがいくつもある。 全てをひっくるめて、何卒上手くいきますようにお願いしよう。

 

 

ところで短冊の願いを見て少しばかり驚いたことがある。

 

自分自身や家族に向けての願いと共に、世界の平和・安全の願いがいくつも見られたからである。

もしかしたら自分が七夕を無視して、短冊を見ていなかったので知らなかっただけのことであり、 昔から、人の願いとしてこれは変わらないのかもしれない。

経済的には世界は統合され、否応なしに生存のための一つの共同体であっても、 心は離れたまま、というのが現実であると思う。 でもそれは僕の定規で測った勝手な見方であり、 他の人たちは少しずつでもお互いに近づいていっているのかもしれないと思った。

 

人を思い、自分の意思では初めて願いを結びつけてみたが、 やはり、自分は外へと自然と発散される自分以外の人への思いが欠落しており、 自分以外の優しさを前に、人を自分の定規で定義する自分の傲慢さを恥ずかしく思った。