寺院用具の総合メーカー
Archive for 12月, 2014
必要なもの
月曜日, 12月 22nd, 2014冬至
月曜日, 12月 22nd, 2014Неожиданно добрый метод перевоспитания трудных подростков
月曜日, 12月 22nd, 2014Август 2014г. Токио, р-н Фучу. Предположительно, 2 противостоящие группы молодых людей из 29 чел.(приблизительно 17 лет) намеревались устроить разборки на территории одного из храмов. С целью чего одна из групп заготовила металлические бейсбольные биты. Городским полицейским управлением по подозрению в организации проведения дуэли было возбуждено уголовное дело в отношении 3 членов групп, в том числе двух лидеров.Остальные 26 молодых людей были переданны милиции на перевоспитание.
Их результатов расследования городского полицейского управления стало известно, что для улаживания конфликта двухлетней давности лидеры двух групп договорились о проведении боя между своими группами. Однако, члены одной из сторонявилась на встречу с металлическими бейсбольными битами, чем повергли своих сорперникров в смятение и мгновенное бегство. И хотя де-факто поединок не состоялся, де-юре дуэль имела место быть.
В качестве перевоспитания 26 трудных подростков полицией был выбран оригинальныйи на наш взгляд гуманный метод: было решено провести турнир по софтболу между объединённой из этих двух групп командой и командой полицейских с целью окончательного примирения противостоящих молодёжных группировок с последующим их расформированием.
気がする論/レクリエーション:1回目
日曜日, 12月 14th, 2014類語 娯楽(ごらく) 楽しみ(たのしみ)
引用元:goo辞書より
ここで英語に戻ると、「recreation」は、2つの単語より構成されている。
2つの単語「re-creation」を素直に読み下すと、「re」(再び)、「creation」(想像する)で、再創造物、という意味になるのであろうか。
リハビリ活動は、幼児が新たな動きを創造していく活動に似たところがあるような気がする。
怪我が回復して元の状態に戻る場合であれば、この例はそぐわないかもしれないが、リハビリというのは、何らかの形で残った部分を利用して新たな動きを再創造することにより怪我や病気などで損なわれた体内・体外の働きを補うことである、と思うからである。
子供達が楽しみながら新たな世界を創造していくのに倣って大人も身体を回復させる、ということが簡単にできることではないと思うが、既に構築されたものを壊して新しいことを創造する困難に直面したときに、それを楽しみとして捉える気持ちや見方を持てるといいね、という意味で「レクレーション施設」という言葉がリハビリテーション病院の場所を説明するのに適切な表現であるように思えたのである。
ところで、私は交通事故で左半身麻痺となった。外科治療は終わり、リハビリ期間を経て、制限はあるが、ある程度の日常生活で必要となる作業は、一人でもこなすことができる身体的な状態になった。現在、定期診断、経過観察のため定期的にリハビリ科に通院している。
診察の結果、装具を試す目的で数回リハビリ室に通う診断となった。装具とは四肢・体幹の障害部を補助するために身体に装備する器具のことであり、私は短下肢装具と呼ばれる種類の物を使用している。
短下肢装具は、このような人に利用され、下方向に垂れたつま先を前直進方向に強制的に補正することにより、歩行を補助する。このため、以前、私が入院して下肢装具を作成する時、リハビリ科の医師に、もし、私の足首が麻痺していなければ装具は不要であるかもしれない、という説明を受けたことがある。また、人・症状により異なるのかもしれないが、私の場合は、内反足と言われる足の形態異常のために地面と平行に足裏が付きにくく小指の面の方から地面に先に接してしまう。この状態を脹脛のある程度上部の方から強制的に足を固定することにより問題のある側の足を地面に下ろすことを可能にし、また、脚を軸として立つことを容易にすることにより歩行を補助、安定化させる働きがあるように私は理解している。
なお、装具自体には動力は有さない。あくまで関節の動きを誘導するための補助器具と言えると思う。
さて、装具を替えてみた方が良いかと思い医師に相談することにしたのは、次の理由からである。
・装具に頼って歩く癖が身についている気がする
・もう少し歳をとり体力がなくなったら装具に頼る方向がいいと思うが、そうなる前の段階は少し負担を掛けた方が良い気がする
簡単に言えば、体力がある内に身体のバランスを回復する方向に向けるためには、強引に例え僅かであったとしても、体を、そして筋肉を使わざるを得ない環境を持つしかない、と思ったからである。
資金移動の円滑化により市場が活性化するイメージのように、水泳で全身を動かすことは、身体が連鎖してバランスを持って動こうとするような気がするので、素晴らしいことのように思える。但し、資金を動かし始めるきっかけを作り出すのに苦慮するのとは異なるのかもしれないが、プールに行くのは何となく面倒であったり、他にやりたいことがあったりと、行動を起こすことを阻害する身体の働きがあることはよくあることで、なかなか足まで始動指示が行き渡らないことが多々ある。
症状や段階によるのであろうが、訓練室の様子を眺めるとリハビリというのは体のバランスを調整することが重要なことであるように感じた。理学療法室に入ると今の下肢装具に代わる候補として、リハビリ師が簡易装具と呼んでいたが、足先と足関節から太ももの裏側に脚を支える形で伸びているプラスチック部位が、今の装具よりも短い物を出してきてくれた。
・それでも、身体が変化を起こそうとしない限りは良い方向に進むことはありえない。
(悪い方向に進むのを加速させる可能性はあるかもしれないが)
たぶん、こんな単純な論拠に基づきリハビリ師は、私の問いかけに答えたのだと思う。
簡易装具を装着して歩き始めると、初めの一歩でつま先が床に引っかかり、前につんのめりそうになる。
それをリハビリ師は予期していたのだろう。素早く、そして優しく僕の腕を包み込むように身体を支える。
私の足裏は、保護の膜が薄くなり厳しい世の中に直面していることが伝わってきたため、恐れおののいているようで、足指先がいつも以上にくの字形に曲がろうとしているようであった。それは、私の思い通りと言えば良いのか。転ばないように、と右脚に頼るだけではなく、ある程度、安定を保つようにと、左足裏が床に着き、また、左足に体重を掛けることを意識して歩く。床に接する感触をより直に感じるようになったために、この事をより意識せざるを得なくなる。
『トレーニング用として保有することは悪くないかもしれない』
但し、強度についてはこの様な動きが積み重なった場合を考えると不安を感じた。転倒する危険性が今より増す可能性のことはさておき、強度的に脆い、というのは大きなリスクであると思う。
リハビリ師の説明によると、この種の装具を利用している人で出張時等の不測の事態に備えて、常時、予備を持ち歩いている人もいる、とのことである。
小さいといっても、それなりの大きさであり、これを常に携帯するのは非現実的である。この装具での長時間歩行は、今の自分の能力的に難しそうなことを考えると、リハビリ師のアドバイスの通りトレーニング用として保持する物品のように自己評価した。
膝を屈伸させるため、上肢をゆっくりと下げる。
自分の装具に履き替え、同じ様に屈伸運動を行う。
ジョイントがあるため、今、試している簡易装具と同様に曲がるようであり、動きの柔軟性という点では、どちらもあまり変わらないようであった。
もしかしたら安定性と安心という点を考えると、しっかりと強度を備えた今の装具の方があるのかもしれないと思った。
比較のためにリハビリ師が素足に近いという、「より簡易的な」装具を履かせてもらい屈伸運動をする。
リハビリ師の言うように単なる訓練用として購入するか。
『外で歩くことができますか?』
これからの予定、つまり今回で装具を試すのは終わりにするのか、まだ次回も続けるのかを決める時、この質問を投げかけた。
気がする論/はじめに
日曜日, 12月 14th, 2014これは何かの本質を理解する上で、意外と重要な要素になり得ることであると思う。「気がする」、という言葉は他人に対する説得力のない弱気の心の表れであり、例えば、仕事上では不利益となるだけであり評価を落とす要素となることがある。直感、と呼ばれる人の反応は、成功者の結果論を語る場合には、必要な要素として良く語られるのかもしれないが、一般的には、直感に基づく発言や行動は、曖昧であったり、責任感のない言動に取られたりと、あまり肯定的には捉えられていない人の性格を成す一要素であると思う。但し、対象となる物事の本質を知り、そして理解をした上で話が出来ている時間というのは、全ての会話の中でどれ位の割合を占めるのであろうか?ある事象について突き詰めて考えると、また、知識を深めていくと、その対象物に対して自分が如何に無知であるのか、如何に対象物が複雑怪奇であるのか、ということを思い知ることがあったりすると思う。
そのような時に、まごまごと自分の無力を嘆いたところで先には進まない訳である。例え知らなかったとしても、人々の経験で養われ、そして、組織等で共有されたノウハウに基づいて、分かったフリをしながら進むべき道や措置の程度の加減などを判断しながら先に進むことができる、という能力が求められることが世の中には多いと思う。
その能力についての議論はさておき、何かの権威を有していない人間の『何となく』、『そんな気』がする、というちっぽけな声の響きを無視して良いのであろうか?
以前にも書いたことがあるが、私は病院で見た出来事を良く思い出す。
数ヶ月入院した時に、廊下である初老の女性と話す機会があった。
彼女は、医師の指示する内容のリハビリを遂行する。
その措置を行う事による身体からの痛みという叫びを伏せて。
その結果、症状は悪化を重ね、彼女には改善の見込みが見えなくなる。
このように語るその女性の言葉が、どれだけの客観性を有しているのかは知らないが、言葉を含めたこの女性の外観から何らかの将来へのプラスとなる要素は一見では見当たらなかった。
彼女にとって愚痴のはけ口さえ見つけられればよかっただけのことであり、不満を感じながらもその場を何とかやり過ごして無事に退院して健康体を取り戻したのかもしれない。
但し、常に、何とか我慢すればよかっただけのこと、ということだけではないと思う。
病院で、患者は、論理的な医師への説明により物事を進めなければならない、という義務がある訳でないと思う。
自信がない。私が偉い人の前で言うのは、恥ずかしいし、失礼だと思う。
でも、私はそんな気がした。
体に感じた適切には表現できない曖昧なことを患者と医師の両者で拾い上げることにより、初めてプラス方向に向かうためのやり取りが始まるではないだろうか?
これは極端な例かもしれないが、どのような場面であっても、「気がする」という感覚の発生には、非論理に発生する言葉や絵図ではなく、何かしら、それの基となる原因や理由があるはずである。
何にも繋がりのない映像が浮かんできたのであれば、それは神からのお告げかもしれないし、そんな人は、当に常人とは違う天才なのではないだろうか?
Steve Vaiというエキセントリックな旋律を奏でる天才ギタリストが、夢の中に出てくる事象を曲のアイディアにしようと、耳にイヤホンをして音楽を聴きながら寝ることにより夢をコントロールしようとした、という内容の記事をある雑誌で読んだことがあるように記憶している。