親戚の人に誘われたという他の力を借りて珍しく食事を愉しむ席、日本料理店を訪れた。
事前に会の案内に書かれたいた場所の名前をホームページを調べてみると、
「お懐石」という文字が目に入る。
懐石という文字をどのように理解すべきであるのかが正直言うとよく分からなかった。
茶の湯の食事であり、会の主が客をもてなす料理であるというようなことが、
ウェッキペディアには書かれていた。
何が何だか分からないが、
兎も角普段味わう、また見ていない食事であることは理解して
東京の中心にある新宿、そしてその中心にある料理屋へと向かった。
「立春大吉」
僕には、今この瞬間にこの言葉でもてなされ、
またその場を共有する人たちとその場を共に味わうとすることが正に適切であるのかの判断をする知識がなかったが、
料理というのは季節であり人生を表現する美として存在し、またさせてようとしているのだということは理解できた。
年が明け春が訪れる。
その幕開けとその年の幸福を願うと、次に新たな芽が目の前に運ばれてきた。
僕が正しく理解しているのかどうかは分からないが、
恐らくは料理人はある物語を描いているのであろう事を想像した。
食器に描かれた「高山寺」という文字を見て、
親戚が給仕に意味を質問する。
「鳥獣戯画」
もちろんそれは誰もが知ることということなのだろうか。
シンプルに返ってきた回答に、どんな漢字かも分からずに「ああ、そうなんですか」と納得をしたように頷いた。
その場でネットで調べてみると、高山寺とは京都市右京区になる寺院であり、
そこに伝わる国宝の絵巻物が鳥獣人物戯画であるとのことであった。
知識の有無は別にして食器に描かれる図柄は生生しく、
また食器に添われる匙の描く曲線は人の目を奪う優雅さを有していた。
食事を終え、以後の再会を約束して新宿駅へと向かう。
今日の会話で、和食が世界遺産に登録されたという話題があり、
目の前に広がる美を誇る話題があった。
確かにそこには美しさがあり、また人の籠めた息があった。
新宿から乗った電車を降りバス停へと向かう。
以前、何度か座ったこと記憶のある中華料理屋を通る。
開いているのかもう閉じてしまっているのか良く分からなかったが、
あまりじっくりとその事実を確認するのを躊躇うがごとく横目に見ながらその場を過ぎ去った。
大晦日の夜に百八回の鐘を鳴らすというのは、
日本仏教の行事であるようある。
2012年より住み始めた現在の住所の側にはお寺があった。
僕がその寺院に着く前から鐘はぽんぽんと鳴っており、
また、僕がそのお寺にいる間も継続してぽんぽんいう音が宙を響いていた。
「初詣にはコンナに人が来るんだ」
警備員がちらほらと目の前に現れ、
鳥居の前まで辿り着くと、階段には想像だにしない人の行列があった。
上へと進む手段はないかと行列に近づいてみると、
「お参りですか?」
と杖を右手に持つ私を心配してくれたのであろうか警備員より声を掛けられた。
「いや大丈夫です」
何が大丈夫で何が大丈夫でないのかは分からないが、
「興味があるので境内に進みたいたいのですが。。。」
とは聞くのは何だか勇気がなかったのか列を作りお参りをする人を前にしては失礼な気がして、
新年を迎えるときにコンナ音が聞こえてくる光景が広がっていることは知らなかった。
裏口へと辿り着く。
どうやら誰かがそこを遮っているわけではなく、
初詣で並ぶ人の横から境内へと入り込むことができるようであった。
笛の音が響く境内へと近づくと能面を演者が人々の横を舞っていた。
僕にはその拍子と舞がどれだけお参りをする人の心を揺さぶっているのかどうかを想像すると
極めて不思議な光景に見えた。
長らく待った出番が来て神の前でちゃんちゃんと手を合わせると、
だいたいの人は仮面に目を向けることもなく横にして社務所へと向い
絵馬や熊手を買い、また恋人、友達と占いの紙へと笑顔を向けていた。
今この暗闇に浮かぶ家の中、ほとんどの人が外に出て鐘をたたき、またお参りをしているのであろうか?良くは分からないが、若しかしたら殆どの人が家の中にいるのかもしれない。
世間でお洒落と言われるところというか、
並んでカフェや食事の場所に入るのが面倒臭いと言うか、
あまり世の中に溶け込むように交じり混むことがあまりないのだが、
珍しくいつになるか分からないが待てという定員の言葉に従い並んでカフェに入ることになった。
45分であればと案内された席はソファで両手を軽く広げて座ってゆったりとできる場所であったが、
敢えて並んでゆったりとしたヒトトキを過ごそうというのはよく理解できなかった。
周りに座り談笑する女性たちは
ゆったりとした空間を求めてここに現れているのかどうかは知らないが、
いずれにしろここは人気がありインターネットで持て囃されており、
ここに集う人に何かの喜びを与えているのであろう。