Archive for 3月, 2014

アートと生活

月曜日, 3月 31st, 2014

今日はいくつか美術館を回った。

 

ゆっくりと時間と過ごす時間もなく、

ただ過ぎ去るように展示物を見て回る。

 

始めに見た映像の美。

 

現代的と言っていいのか知らないが、

シュールな映像を人々が眺める。

真剣にそれを見つめる人々がどんなことを感じているのかに興味を覚えた。

美術というのは基本的には哲学感の描写であると思うのだが、

それを明確に感じるにはゆっくりと感じ思うゆとりと時間が必要なのかと思うのだが、

ただ過ぎ去るだけで終わってしまった。

 

 

次の美術館。

 

そこはシンプルに分かりやすい花をモチーフにした美の展示物のコレクションであり、

個人的には分かりやすかった。

哲学感を感じなかったとしても、

単純な美しさを見るというのも悪いものではないような気がするが、

美術館というのは何だか堅苦しいところであり、

お茶を飲み会話を交わしながらその展示物に接する方がいいような気がしないだろうか?

と思いながらそこから次の場所へと進んだ。

 

最後に訪れたのが、浅草にある

「アミューズミュージアム~布文化と浮世絵の美術館~」

というところであった。

 

そこは主に南部地方の布を紹介しており、

以前よりボロというものがファッションでも流行っているような気もするが、

やはり布を長年かけて継ぎ接ぎで作り上げたその形状は

とても分かりやすく綺麗なものに見えた。

 

 

日曜日, 3月 30th, 2014
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裸足で歩くと大地からの熱が伝わってくる

帰路

土曜日, 3月 29th, 2014

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まだ今の場所に住み始めて2年弱と短いが、
いつも自分の近所に景色であり、またその時、その季節に柔らかでありながらキレイだと思わせる刺激を与えてくれる場所になっている。

最寄りのバス停の前にあるその寺院。

夜、帰宅の途、バスを降りると、
ふと境内の方を暫く眺め、
それから家の方へと歩いていく日がよくある。

今日、一週間の出張から帰りいつものバス停で車から降りた。

この一週間で、また暖かい季節へとぐんぐんと進んだようであり、
また新しい息吹を与えてくれる景色であるとともに、
家に帰ってきたという思いを強く感じさせてくれる場所であった。

また、春の芽に触れることのできる週末になるか思うと心が沸き立ってきた。

生れけり 死ぬ迄は 生くるなり

月曜日, 3月 24th, 2014

三連休の二日目。

 

体調は優れなかったが、

「季節を見ていないでしょ」

と家内に連れ出されて外にでた。

 

言われる通り会社への行き帰りの車窓をたまに眺めるくらいで、

仕事に追われて昨年の秋も季節の移り変わりをかすかに雰囲気を感じるだけで過ぎ去り、

冬と言えば寒いという空気を感じることにより十分というほどに季節を体には受けてはいたものの

新鮮で澄んだ空気の中に映る景色をゆるりと眺めていたわけではなかった。

 

外へ出ると、確かに春は来ていた。

 

毎年、サクラを見に外へでることはある。

 

ただし、サクラに興味や大きく心引かれているわけではなく、

サクラの幹より顔を出す鮮やかな緑色に心動かされ、それがゆえにサクラを見に行くのが習慣であった。

 

 

今日もあの綺麗な春の緑色が広がりつつあった。

 

 

その日の目的は町を散歩することではなく、

「武者小路実篤記念館」を訪れることであった。

 

武者小路実篤に興味があったわけでも書を読んだ記憶がなかったわけで、

その記念館に訪れる大きな目的なりがあったわけではない。

家内は東京にある色々な文化施設に無料、または割引料金で入場できる「ぐるっとパス2013」というのを持っており、

3月31日が期限ということでまだ訪問していなく、また身近な場所にある施設に訪れてみようという企画であった。

 

バスを待つが休みのためか30分ほど時間を過ぎてもバスはその姿を現さず、

歩いてその記念館がある仙川へと行く羽目となってしまった。

 

そのお陰といっていいのか、

文頭に述べたように生き生きとした緑の芽に触れることができて、

毎年何か新鮮な何かがあるわけではないのであろうが、

またいいものに出会ったと喜べるのが幸せなものである。

 

武者小路実篤の記念館に着く。

 

個人の屋敷跡ということであるようであるが、

随分と大きい敷地であり、来園者が多いわけでもなさそうで

ゆったりと腰を落ち着けるには心地の良い場所のようである。

 

のんびり歩いて来たために閉門時間が近づいていることに加え、

強い疲労感があり何か展示物の説明を読む気力はなかったのであるが、

実篤の書いた言葉や絵の表面を眺めた。

 

言霊というのか良く分からないが、

世間では何かもっともらしい言葉の展示や売り買いがよく行われているようだが、

この記念館の主の実篤もそのような言葉を多く残しているようであった。

 

そのなかで僕の目を引いた言葉があった。

 

「生れけり 死ぬ迄は 生くるなり」

 

その日は他の美術館も訪問する予定であったが、

時間はなく、そのまま用事のあった吉祥寺へと向かった。

 

 

感情を現す、伝える

日曜日, 3月 23rd, 2014
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LINEのようなコミュニケーションツールが流行っているが、
私も同様のアプリは使っているため、
どのようなものであるのか全く知らない訳ではない。

僕にはチャットを好んでいた時代があったが、
メールを含め絵文字を使ったことがなかった。

LINEのようなコミュニケーションツールには
絵文字の発展形と言えば良いのか、
全くの別物であるのか知らないが、
スタンプという自分の気持ちを伝えるためのツールがある。

僕は初めはスタンプを利用していなかったが、
人よりつまらないと咎められたこともあり、
あまり拒否してばかりではまずいかと思い利用するようになった。

僕は無料のものを利用しているが、
販売されているものを購入したり、景品としてあるものを手に入れて利用することが、
一般的にあることのようである。

今日、自動販売機を目の前に、
スタンプの景品を人の目を引くためのネタとして掲示されているのを見た。

『こんな風に人と人との媒体となる感情が、
自分とは違う個人の感情の物理的描写物が景品として人に配られ、好んで利用されるものなんだなあ』

こんな風に少々馬鹿らしく思ってしまったが、
すぐに自分でその考えを否定した。

人に分からないもの、知らないことは伝わらないし、
皆んなと共有できるものを媒体とするのが楽でもある。
現実、そうしなければやり取りが困難なだけでなく、
叩かれることはよくあることであろう。

元々、物理的に人と人が面を合わせていても、
何が表面に現れているかは分ったものではない。

所詮使い方次第であり
ネットと現実を全くの別物と決めつける風潮があるが、
本質的には何も変わらないと思う。

難しい

金曜日, 3月 21st, 2014
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生きているとどうしたらよいのか
判断に窮することがある。

強く主張した方が良いのか、
静かに畏まっているのが正しいのか。

陽のあたる側面しか見ない、見えないことがある。

その目の前に広がる姿が事実であり正であるのであろう。
そいつを叩き潰すのか、受け入れるのか。

僕はどう先に進んだらよいのか分からずに
立ち止まって右往左往した。

オリンピック

月曜日, 3月 17th, 2014
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ソチのパラリンピックが本日閉会したそうである。

オリンピックには興味がない僕は一度も試合を見ることはなかったし、パラリンピックも何がどうであったのかは知りはしない。

そんな僕が何かを語る資格はないのかもしれないがよく分からないことがある。

それはオリンピックとパラリンピックというのが別の催しとして存在することである。

スポーツのことも知りもしない僕はただ無理解なことを示すだけのことかもしれないが、
パラリンピックで行われる競技を一つのオリンピックの競技としないのは何故であるのか理解できない。
想像するにそれぞれの催しで重なる競技はないのではないだろうか?

そんな競技があるのかどうか知らないが、例えばパラリンピックに松葉杖でのマラソンがあるような気がするが、
一方、オリンピックにはそのような競技はないような気がするがする。
全て競技を逐一挙げてみれば、同一のものもあるのかもしれないが、
多分、殆どは重ならないのでないだろうか。
別にそれら別々の種目を一つのオリンピックの競技として、世界一を争うことに何の不思議はないような気がする。

大会を分けることで、
真の世界一とは認めたくはないという壁がまるであるようには思えないだろうか?

人は差があると感じることで何か秩序と言うか落ち着く部分があるのかもしれない。

木曜日, 3月 6th, 2014

知

 頭がいいと何かいいことがあるのでしょうか。
知を使い人を押しのけて、
初めて町の中心へと登りつめることができる。
そして、そこでオアシスに佇むことができるのかもしれない。

人の成果のけなし方

月曜日, 3月 3rd, 2014

お知らせ

人の書いた文章というのは稚拙であると感じることがあったりとか間違いなどを次々と見つけ出したりすることはしばしばあるのではないでしょうか?

さて、自分の作成した文章。

練りに練って、自分の中で審議に審議を重ねて絞り出された文章。

あの稚拙な文章を書く彼に色々と指摘される。
確かにその通り。
こんなに間違っているのはどうしてだろう。。。

人の成果物は貶しやすいが、大概は自分も大差ないか、けなされるネタさえも提供できていなかったりするのかもしれない。

・省エネというのはCO2の削減のためにやるのか?
・CO2の削減は法律で決められているからやるのか?
・つまり、省エネは法律で決められているからやるのか?
・省エネ運動をお知らせしない場合、どれだけのクレームがあるのか?
・御協力しろとは、具体的に何を協力しろということなのか?

理解して口を閉じることが協力なんだろう。

どれだけ筆者の意図を汲み取り、また理解できたのか?
とりあえずコメンテーターとして振る舞うのは楽なんだろう。