7月 16
「歩きながら元気と文化が生まれる町。すぎなみ」
以前、妻がどこからか持ってきた地図がこれだ。
「いいね、行ってみようか」
と言いながら時は流れ、一人になり、また暑い季節になった。
クーラーのある部屋を離れる意義というか論理を見出せないでいたが、
地図を開いてみる。
何を仕出かそうと企んでいるのかはしらないが、
その地図には杉並区で歩くべき道がルートとして14筋ほど設定されており、
人々がそこを歩むと、杉並区の教育委員会は、
「すぎなみの魅力を再発見していただくと共に、
健康な生活が続けられるkとおを願っています」
ということである。
記憶にはないが、
「Dコース」成宗・田端両村界隈が
オレンジ色のマーカーで記しづけられている。
人に敷かれた線に乗って歩むことに不愉快な想いがあるが、
かといって別に自分で何かを探すつもりもなかった。
「すぎなみ」と漢字ではなく、平仮名で表記する意義について考えながら、
地図に書かれている「Dコース」の出発地に程近い「善福寺川緑地公園前」までの経路を
Googleで調べて出発した。
井の頭線浜田山駅から、
浜田山行きのバス-けやき路線「すぎ丸」-に乗り出発した。
「すぎ丸」というのは数年前にできた路線で、
井の頭線と中央線の駅を南北に結ぶ3つのほどあるバス路線である。
経営状態は知らないが、
鉄道の通わない南北の通路を結ぶ路線として活躍しているのかもしれない。
住宅街の狭い道をバスとは思えない軽快さで右へ左へと舵を切りながら先へと進んでいく。
Googleで調べた所用時間を考えるとこのバス路線上に目的地はあると判断していた。
浜田山から随分と北へ進んだはずだが、
「善福寺川緑地公園前」
というバス停は現れる様子がない。
「善福寺川緑地」と少し何か足りないような気がしたが、
これ以上先に進んでしまってはいけないような気がしたので、
ボタンを押してバスに止まるようにお願いして外に出ることにした。
「杉並区 史跡 散歩 地図」を見ると、
だいぶ北に来てしまったようである。
地図の示す「善福寺川緑地公園前」というのはだいぶ離れた場所にあるようである。
その地図に示すルートに従うことにどれだけに意味があるのかは分からないし、
それに従うことは不愉快であった。
海外旅行では、
「地球の歩き方」という人を舐めた本に憤りを感じつつも、
結局はそんな類の本を持ち歩いていたわけであるが、
「杉並区 史跡 散歩 地図」によると、
出発地点の近くに見所があるようで、
後悔するかもしれないと、結局は出発地点へと向かった。
地図の出発地点には、少しばかり長ったらしい名前があり
「成田東三丁目所在民間信仰石造物」
と名づけられているそうである。
わざわざ形式ばった名称が必要かどうかはさておき、
このように布を被せてやらないと無くなっていくものが世の中の大多数なのであろう。
また、バスを降りたところまで同じ道を戻ってくることを想定すると、
何だか癪に障ったが、ともかく地図にある再び善福寺川と交わる地点までたどり着き、
尾崎橋を渡り左に折れて進むと、その石造物前に到着した。
この杉並区史跡散歩のために認定された場所なのであろう、
杉並区教育委員会の準備したと思しき説明版がある。
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民間信仰石塔
「ここに建立されている石造は、向かって右から元禄十一年(169x)・・・・の地蔵塔、宝暦十年(1960)十月吉日銘」の馬頭観音塔、宝暦三年(1953)十月吉日銘の地蔵塔です。
これらの石塔は、何れも「念仏講中」「念仏講中拾六人」等と記され、ここ武州多摩郡成宗村白幡の人々が、現世での幸福と来世の往生極楽を願い、講を組織し、建立したものであることが分かります。
(略)
これら石塔を建立した白幡念仏講中も、昭和十五年頃までは、毎月この場に集い、念仏供養を行っていましたが、現在では毎年十月十五日に供養会を盛大に行っています。
昭和六十二年三月 杉並区教育委員会
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良くは分からないが、このような説明を読むと、
地蔵も庚申塔も結局は同じものに見えてしまうが間違いであろうか?
自分の立つ位置を現実のものと定義するために世界を作り、
そこでそうは言ってもやっぱり無を恐れてなのか現実だから怖いのかは分からないが、
現世と来世の幸せを願い、そして人が集い語り合う。
そこを離れ次の場所、曹洞宗宝昌寺へ足を踏み入れる。
日本において仏教と神道の境が混沌としている部分があるのはよく見受けられるが、
ここは奥を見ると、豊川稲荷の旗がはためいており、同じ敷地内に神社と寺院があるようであった。
奥の神社側にも入り口があるのか、
子供達がこちらに向かって寺院の家屋のベルを鳴らし友達に会いに来る。
ともかくそこは町にある友達の家であり、
その家への訪問者であったのかもしれないが交通路でもあるようで、
明らかに参拝、お墓参りに来た人ではない人が、たまに私の前を通り過ぎていった。
私も人々に倣い、神社を通り過ぎ道に出ると
元は地域の境であったという三年坂を昇り次の目的地である尾崎熊野神社へと向かった。
境内への参堂は自転車置き場となっており、
用事を終えた親子が自転車に乗りそこを去り、
一方中に入ると、二名の男女がタオルを水に浸し汚れた体を清め、
そしてベンチに座り休んでいた。
地図のその先を見ると、目的地はどこも神社か寺院であり、
どこもよく見ることでは、無視された場所に見えたりするが、
ふと、あるが祈る人が現れ、またイベントの案内が掲げられている。
誰かが残そうと思ったので残ったのかもしれないが、
どこにでもある見慣れた空間であり人が集う場所として残りながら、
何故だか一つ間には川が敷かれた空間にも見え、
どこも同じ光景でありながら、どこも同じように新鮮に写った。
Чувствуется сила камня! Здорово!
石の力が感じられます!
それは素晴らしい!