============================================================
オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ
<薬師如来の真言(*1)>
オーン(*2)。取り去りたまえ。取り去りたまえ。チャンダーリー(*3)よ。マータンギー(*4)よ。スヴァーハー(*5)。
————————————
*1 真言(サンスクリット語:マントラ)とは、大日経などの密教経典に由来し、真実の言葉という意。転じて仏の言葉をいう。
*2 オームは、バラモン教をはじめとするインドの諸宗教において神聖視される呪文。注
*3 チャンダーリーは、インドの賎民の女。
*4 マータンギーは、福徳を司る女神。
*5 スヴァーハーは、密教に於いては真言の末尾に多く使われる言葉。一般には漢訳の薩婆訶(ソワカ)として知られる。
儀式の際には、供物を祭火に投じる時の掛け声としてこの言葉が唱えられた。この為、後には「スヴァーハー」は、願いが神々に届く事を祈る聖句とされた。
————————————
以上ウィキペディアフリー百科事典の記述内容の複数個所から抜粋
============================================================
今日は、連休最後の日。
『生誕300年記念 若冲展』の鑑賞のため、上野の東京都美術館へと向かった。
4月末に、『NHKスペシャル 若冲 天才絵師の謎に迫る』という番組で、
その時代には評価されることがなかった孤高の画家であったことを紹介していた。
若冲の有名な作品として、
仙人掌群鶏図という両端にサボテンを、そしてその間に鶏を描いた襖絵があるそうである。
絵は、非常に鮮やかな色彩で描かれているが、
その襖の裏側には、水墨画により枯れた蓮の花が、暗く描画されているそうである。
番組の解説者の話では、若冲がそのままの自然を美として描くことが彼が到達した表現であると理解してそうである。
但し、その人が最近気が付いたこととして、
東北の大地震で壊滅した都市を見ることを一つのきっかけとして、
その枯れた植物の中に、新しい芽が描かれていることに目を留めるようになった。
そして、天明の大火という歴史的な大火により、京都が壊滅状態になったその時代、
若冲は、再建への願いをその絵に描いたのではないか?ということに気が付いた、
といったことを話していた。
良くありがちな表現手法であるような気もしたが、
ともかく、実際に若冲の絵を見てみたいと思うようになり、
本日、行ってみることにしたのである。
長々と、美術館に向かった理由を前置きとして書いたが、
実は言うと、美術館に行く、という人間の気持ちや趣味が、僕はあまり理解できていない。
行くからには、何か感じたことがなかったとしても、
人々や同行者が、素晴らしいと評価したり、また、逆に非難するようであれば、
何か分かったふりをしなければならない義務感が発生するような気がするので、
個人的には、美術館に行くことは、いつも何か面倒な部分があるように感じている。
美術館で作品に手を触れてみることができれば少しは意味があるのだが、
と思いつつ、一つ一つの作品をゆっくりと観察することはせずに、
少し速足で歩き、会場全体の雰囲気を感じて回ることで終えてしまうのが、
いつもの僕の美術館訪問である。
東京都美術館の前に着くと、70分待ちの行列ということである。
自分も自らの意志で訪問している訳であり、意味不明な気持ちであることは承知しているが、
『多くの人が美術館に訪問し、また、1時間以上待って展示物を見ようとする』、
という現実が、何故発生し得るのかが、どうしても理解できなかった。
並んでまで見るつもりはなかった。
上野公園を散歩にて、連休の幕が閉じることになった。
スーパーで、初老の男がレジ女性に、何度も同じ言葉を連呼しながら、質問していました。
『菖蒲はあるか?』
若い女性は、質問の意味が分からないのか、後ろのレジを担当していた年配の女性店員に助けを求めると、
即座に『ありません』との返答がありました。
僕は、毎日、『何曜日であるか、休日であるのかどうか』、が分っているぐらいで、
その他は何も理解していません。
自宅に帰り、『こどもの日』を調べてみると、
その日は、端午の節句(中国由来し日本に定着した、季節の節目(端午=5月5日)を祝う)、
別名では、菖蒲の節句(端午の節句に、邪気を祓うために菖蒲を飾ったりする)と言われている、と書いてありました。
確かに、調べるまでもなく、そんな言葉は、小さい頃からよく聞いてきたことですね。
端午の節句・菖蒲の節句が、こどもの日と直接どのように関係があるのかは正確には理解できていませんが、
菖蒲というものは、武士の時代、『菖蒲=勝負』という語呂合わせで、
厄払いの意味だけではなく、子供への強い男性になって欲しいという願いを重ね合わせて、
縁起の良い物であったようです。
また、男子の節句として定着する過程において、子の立身出世を願い激流を登る鯉を掲げて祝うようになったようです。
多くの人が、子供の日に、どのように子供を祝っているのかは、正直知りませんが、
このようなお祝いは、親から子供への一方的な押し付けを含む思い、であるのだと思います。
ところで、今日、スーパーで買ったお寿司を食べました。
スーパーのお寿司売り場では、『こどもの日』ということで、
盛んに祝うためのちらし寿司のプラスチックケースを、山盛りに積んでいたり、
ごちそうメニューとして、おすすめをしたり、といった感じで盛況でありました。
何箱もお寿司を抱えたお母さんがレジに向かっていました。
人の自由がきれいな言葉として尊重される今の世の中。
我が子の健康やたくましい成長や出世を、親の強い思いとして、我が子に投影させようとする傾向は、
今よりも、昔の方が強かったのではないか?と想像しましたが、どうでしょうか。
多様化する価値観の中、親の思いを伝えるのは、以前より難しい世の中なのかもしれません。
実際のところは、残念ながら、何も知りませんが。
また、分業化が進み、商業的に生産されたものを利用して生活する世界においては、
人生で人の思いや生き方が、親から子に伝わる過程で、
世代をまたぐ知の伝承と発展への要素と力は、
もしかしたら、歴史的に両親の中に養われて来た素地の中から生じるものよりも、
生産者や販売者の意図により養われる部分が大きいかもしれません。
生産者や販売者は、他人の子供の健康や立身出世を願うよりも、
営業利益と自分の家族の生活を考えて行動していると思いますが、
僕のように、歴史や常識を何も知らない人間であれば、スーパーに飾り立てられた雰囲気を感じ取り
『スーパーが祝え、と言っているようだから、とりあえず、寿司でも買って祝おうか』
と行動を決めることもあるかもしれないと思いました。
つつじの花は、もう、だいぶ枯れていた。
それでも、遠くから眺め見ると、誰かを納得させる力は持っているような気もするし、
折角来たことの意義をお互いに納得しなければならないためか、
『もう少し早い時期に来れば、どんなに見事であったのだろうね』
といったような言葉を投げ交わす人々と、何度かすれ違った。
わざわざ、そんな理解を、みんなで共有する必要はないかと思うが、
何故だか、気持ちが落ち着かないのかもしれない。
『花の命は短い』
こんな言葉をよく聞くが、人の生活を花に例えると、なるほど、分かり易いのかもしれない。
成功を得られるチャンスは、ほんの一時であり、その時期を逸してしまえば、
枯れた花が、そのままの美しさを二度と再現できないのと同じように、
去ってしまった時間と、そこで得られるはずの幸せを掴むチャンスを、取り戻すことはできない。
害虫や気候の影響により、一年経っても、以前と同じ美を持つ花を咲かせてはくれないことがあるように、
再び到来した機会は、昨年と同じ意味を持つとは限らない。
だから、『今のこの瞬間を、必死に生きるしかない』、と人は思うのであろうか?
春の桜。
僕は、その花よりも、その幹に生える若葉の方が、いつも魅力的に見えているのだが、
今日、枯れたつつじの花の間に残る新緑の色が美しく見えたのは、
それを将来の希望の印として、目の前に描きたいからであろうかな?と想像した。