久しぶりに家族でラーメンを食べる。
Archive for 5月, 2014
久しぶり
日曜日, 5月 25th, 2014コケモモ抹茶アイス
日曜日, 5月 25th, 2014右と左
日曜日, 5月 25th, 2014なぜ使いにくいのか分からなかった。
新しいハサミが必要となり、
100円ショップで買った。
どうも上手く切れない。
100円ショップの質の限界なのか?
それとも金と比較して判断すると妥当な帰結であるのか?
古いハサミを並べてみる。
同じ形状の物に見えるが、
何だか少し気持ち悪い。
左手で握って指を開閉させながらその動きを眺めてみる。
今度は古いハサミを右手に持ち、その動きを確かめる。
その二つは同じ機構を持った物体であるようであった。
外面は同じように見えても、
皆んな何かが違うんだろう。
人生の流れというのは大まかには大体誰もが似たようなものなんだろうけど、
それぞれ何かの理由があり、そのやり方は異なってくるものなんだろう。
再開発
水曜日, 5月 7th, 2014久しぶりに駅に程近い回転寿司屋に入る。
あまり高くなく、味もそこそこであり、
いま流行りのチェーン店よりも少し冴えない感じもあるが落ち着いた感じのところで、
家で食事を作るのが面倒な時に入店している。
やっぱりここは安くて味も悪くないしいいね、
と言いながら外に出る。
店のガラスの前に垂れ下がる簾に髪がかかっており、
どうやら今月で閉店となるそうである。
そこに書かれた文面がただしいのであれば、
町の再開発の煽りをうけ撤退することになったそうである。
再開発について、市の計画を見ると次のようなことが書いてある。
『現状の問題点:
魅力ある施設が少なく、他都市への購買層の流出が激しい。
整備課題:
魅力ある駅前地区にふさわしい各種施設の配置を検討する。
集客力のある店舗、専門店の誘致を検討する。』
正しいことを進めているのかもしれないが、
何かがなくなっていくのは寂しさもあり、
その気持ちと一緒に魅力ある何かも併せて捨てられ時に流され消えてなくなるのであろう。
教育
水曜日, 5月 7th, 2014先日、役所に行った。
書類が出来るのを待っている時、
ソファの側に置いてあった本を手に取った。
幼児向けの本で、世界の国々を紹介する本である。
ロシアのページを開く。
あいさつは『ドーブルイ』とのこと。
他言語の発音をカタカナで正しく表現できないから、それは仕方ない。
明らかに単語が違うというのはまずいのではないかな?
採算には見合わないのかもしれないが、
きちんと適当な人が担当して確認していないのではないだろうか。
小さいうちからこんな風に一つ一つ踏み外して気が付いたらどうにもならない隔たりがあるなんてことは、
どこにでも、いつでもあることなんでしょうね。
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ロシア語
ドーブルイ ヂェーニ – こんにちは
ドーブルイは形容詞で、良い、とか、善良な、という意味。
ヂェーニは名詞で、日、昼間、という意味。
そんな訳で、ドーブロエ(語尾が名詞により変化) ウートラ(朝)と言えば、おはよう、になり、
ドーブルイ ヴェーチェル(晩)で、今晩はになります。
生き物の魅力
火曜日, 5月 6th, 2014焼きそば祭!
火曜日, 5月 6th, 2014ゴールデンウイークと言えば焼きそばである。
連休も終盤の少しの哀しさも混じった佳境に入り、祭りの時のように今か今かとワクワクしながら鉄板の前で待つあの時のように、今日は家の中に鉄板を広げて、家族皆で最後の楽しい時間を満喫されていることと思う。
ところで祭という言葉は、考えると意外と難しい気がしてきた。
簡単に言えば祈りを捧げる儀式と言えばよいであろうか。
ただ、近来よりこのような意味合いはあまり含まず、人々の集う楽しい催しという意味で使われることが多いのかもしれない。
例えば、さっぽろ雪まつりのホームページには次のような説明がある。
「雪まつりは、1950年に、地元の中・高校生が6つの雪像を大通公園に設置したことを きっかけに始まりました。雪合戦、雪像展、カーニバル等を合わせて開催、5万人あまりの人出で予想以上の大人気でした。以後、札幌の冬の行事として市民に定着していくことになります。」
カーニバルという言葉は、宗教的な意味合いがありそうだが、
恐らくはここではそのような意味は込めずに、
人々が純粋に楽しむ場として、「祭」という言葉を使っているのであろう。
毎日の生活のその瞬間瞬間だけでなく、もっと楽しく喜ぶために作り上げられた祭という昔から伝わった場だけではなく、
心を紅葉させる催しを少しでも増やせたら、
ということなのであろうか。
ところで、町祭りを渡り歩くと、同じ人が鉄板の向こうで焼きそばを焼いているのを見ることがあるかもしれない。
だいたい収穫祭であれば、毎年の習慣であり、1年待てばまた来るのだが、
待てと言われると1年は長いもので、その瞬間は普段とは違う濃さを感じる人も多いのではないだろうか。
ただそこで焼きそばを焼く彼は、それが日常生活であり、
あんまり重々しく手間のかかりすぎるものであってはならないのかもしれない。
手軽でないと、日常的に、自分に、そして周りの人に人生の喜びを与えるのは難しいのかもしれない。