Archive for the ‘気がする論’ Category

国家と民族

金曜日, 2月 6th, 2015

■日本人のルーツとは

Facebookで次の記事が紹介されていました。

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■題名 「日本人」はどこから来たのか
桃山学院大学名誉教授 沖浦和光さんへのインタビュー 10代の人権情報ネットワーク Be_FLAT

■ウェブサイト http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/
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この記事を読んで、少し怖くなりました。

一般に日本人と呼称される民族について、科学的に解明されてきた歴史的な成り立ちの説明は、非常に興味深く、そのことについて学者や研究者が人々に広報することは、非常に有意義なことであると思います。
しかし、その研究成果の報告ではなく、民族や国家の概念について無知な人が多い、ということが、この記事の成立条件であるということが、私が怖さを感じた理由です。

恐ろしさを感じる理由について例を挙げると、例えば、記事の結論部分に、次のような文面があります。

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~ 国家や国民という概念は、現在、力をもっている者がつくった政治的な構築物であり、本来の民族とは別のものであるということです。~

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この文章には、『反権力』という色が見え隠れするため、読む人に誤解を与える可能性があるかもしれませんが、記述されている内容は、年齢に関わらず理解が容易な単純明解な内容です。

民族と国家共同体について、遠い昔には世の中で完全一致しているケースが、もしかしたら、存在したのかもしれませんが、国家の併合を繰り返しながら到達した現代社会では、恐らく存在しないか、あったとしても非常に稀であると思います。
このため、『国民や国家は、民族とは別のものではない』、という概念を持つことは、わざわざ丁寧に説明されるまでもなく、論理的に非常に困難です。

この記事は、10代青少年向けの文章である、という前提があるのかもしれませんが、現在、このように至極当たり前のことを、世の中の考え方を正すというような意図で教育的に語らなければならないような社会状況なのでしょうか?
もし、この文面が現代社会を示す上で適切である、というのであれば、この社会は、部外者の存在を排除し多様性を許容しない極度に硬直された場所である、ということを示すことになってしまうのではないでしょうか。

■民族とは何か

ところで、上に挙げた記事の結論部分を、常識的な概念として示しましたが、実は、私が理解できていない箇所があります。

それは、『本来の民族』という言葉です。

民族とは何でしょうか?

学生のころ、民族という言葉の定義の難しさについて友達と話すことがありました。
その話題は興味深いことではありましたが、この言葉の意味を突き詰めることは、単なる言葉遊びに成りがちであり、長期間に渡り継続して考えることはありませんでした。

もし、民族という言葉の意味やその定義に従った人の分類を分かりやすく決めてしまうのであれば、例えば(現在の中国パスポートや制度については把握していませんが)中国のようにパスポートといった身分証明書に、その個人に登録されている民族名を示す、ということになるのかもしれません。

ここでの民族の定義は、国家が何かしらの意図を持って決定する判断基準に依存することになります。そして、人の分類は、その判断基準により抽出された選択肢の中から決められることになります。

但し、その国家で生活することを許容するある人物が、自分に登録された民族であることを気持ち的に認めるのかどうかは必ずしも明確なわけではありません。

『自分の民族は選択できるリストには存在しないよ』

中国の新疆ウイグル自治区のアルタイ地区を旅行した時に知り合った人から、このような話を聞いたことがあるのを覚えています。

これは、極端な例であるかもしれません。
いずれにしても、民族の定義を誰かが決めることはできるでしょうが、科学的に民族と民族の間に、国境線のように明確な境界線を引くことは不可能です。
このため、民族という言葉自体の意味をあまり突き詰めても、意味がないのです。

そうは言っても、その人が所属する民族というものが、一般的には存在します。

民族は、住んでいる場所、話す言葉、人の容貌などの外見により定義され、人の所属先は、その内容と照らし合わせて決まるのでしょうか?

それとも、遺伝子上に民族名を規定する明解な情報が存在するのでしょうか?

民族という言葉の絶対的な定義は、正直、私には分かりません。
恐らく、多くの人も、観念として民族という言葉で集団を判別しているでしょうが、論理的・科学的に明解な定義を区分けしている人は少ないのではないでしょうか?

■人の多様性とグローバルスタンダード

この記事を読んで、改めて、人、及び民族と、それらから構成される国家・共同体の関係性について、自分なりに少し考えてみました。

まず始めに、共同体の目的の一つである発展という点に着目して考えてみました。
共同体が発展していくための前提条件を考えると、人々がいがみ合う状態であるより、安定し秩序のある社会である方が都合がよい、という点が挙げられると思います。
つまり、経済的な側面による社会の安定性確保とは別に、特に、国の発展途上の段階では、そこに住む人々の間での多様性をなるべく排除し、意識を強く共有したつながりを持った方がよい、という方向で社会の構築が進んでいくことは一般的にあり得ることだと思います。

ここで、共同体の人々を結びつける大きな要素として利用が必須なものとして、言語を挙げてみます。

言語は、その土地、その自然の中で、人が生き延びていく上で必要となる知識や思想・意思等の相互理解を進めるものであり、概してその地域社会の人間の生活、文化そのものを示すものであると思います。
そして、言語を人間の媒体として利用することで、初めて共同体の拡大と発展が可能になるでしょう。

また、日本人という民族と言語についても少し考えてみました。

私の言葉の使い方が間違っているのかもしれませんが、一昔前までは、多くの日本在住者が、バイリンガルであったのだと私は常々理解しています。

このように思う一つの例を挙げると、もう20年ぐらい前と古い話ですが、福島に住む知り合いの家に初めて行った時の経験があります。

その知り合いの家には、高齢のお婆さんが住んでいました。
彼女は、私と話をするときは出来るだけ標準語で話そうと努めてくれましたが、家族に向かって土着の言葉で話されると、私は全く理解できませんでした。
また、私の知り合いも、たまに彼女の言うことが理解できないことがある、ということでした。

このことから分かることは、今は標準語のみを理解すれば生きていくことはできるのかもしれませんが、以前は、少なくとも二つ以上の言語を使いこなすことが生活の上で必要な地域、時代があった、ということであると思います。

地方から東京へ来て働いている方とお話したときに、地元の言葉を話すことを恥ずかしい、という言葉を何度か聞いたことがあります。
そのような人々も、いつでもその力を発揮している訳ではないので実力は後退しているのでしょうが、多言語話者であるのでしょう。

また、言葉は人を疎外するためにも利用されることがあると思います。
部外者と評される人間が、ある家庭や地域社会に入ってきたときに、その新参者を仲間外れにする手段として、あえてその人が理解できない土着の言葉で会話をする、という例をいくつかの場所で聞いたことがあります。

言葉というのは、上に述べたように良い部分も悪い部分も含めて共同体の示す一つの重要な要素です。

その言葉が共同社会の統合化と発展が進むにつれて失われていったことは、悲劇と言ってもよいのではないでしょうか。

日本社会の発展と安定化に向けて、標準語といったツールを利用して一つの価値観を共有化することは重要なことであったのかもしれません。
但し、このような現代の日本人という観念を構築する過程において、人間の多様性や多くの文化が喪失していったのかもしれません。

■世界に住む人々のルーツ

今、世界は一体化が進む方向で進んでおり、経済圏の統合とともに価値観を共有しようという流れがあるように思います。
つまり、世界標準化が進むにつれて、日本で発生した多様性の喪失と同じことが、世界を舞台にして進行しているのではないでしょうか。

文化は変化していくものですし、何も失わないで進んでいくことが必要とも、素晴らしいこととも思いません。
但し、過去の日本の発展を参考に全く同じような道を進んでいくことが正しいことであるとも思いません。

歴史を顧みて自分の過去と現状を理解することが、日本人が国際社会で生きていくために重要なことになってくると考えます。
自分への理解を深めることなしには、同じ価値観を有しない他国の人々を理解することも、尊敬することも難しいでしょう。

気がする論/レクリエーション:1回目

日曜日, 12月 14th, 2014
以前、リハビリテーション病院に入院していたときに、このような施設を修飾する言葉として「レクリエーション施設」という言葉が適切ではないか?、と思ったことがある。「レクリエーション」というのは英語の「recreation」であるが、日本語としても利用されており、次のような説明が辞書に記述されている。《「リクリエーション」「レクレーション」とも》仕事・勉学などの肉体的・精神的疲労をいやし、元気を回復するために休養をとったり娯楽を行ったりすること。また、その休養や娯楽。
類語 娯楽(ごらく) 楽しみ(たのしみ)

引用元:goo辞書より

ここで英語に戻ると、「recreation」は、2つの単語より構成されている。
2つの単語「re-creation」を素直に読み下すと、「re」(再び)、「creation」(想像する)で、再創造物、という意味になるのであろうか。

リハビリ活動は、幼児が新たな動きを創造していく活動に似たところがあるような気がする。

怪我が回復して元の状態に戻る場合であれば、この例はそぐわないかもしれないが、リハビリというのは、何らかの形で残った部分を利用して新たな動きを再創造することにより怪我や病気などで損なわれた体内・体外の働きを補うことである、と思うからである。

子供達が楽しみながら新たな世界を創造していくのに倣って大人も身体を回復させる、ということが簡単にできることではないと思うが、既に構築されたものを壊して新しいことを創造する困難に直面したときに、それを楽しみとして捉える気持ちや見方を持てるといいね、という意味で「レクレーション施設」という言葉がリハビリテーション病院の場所を説明するのに適切な表現であるように思えたのである。

ところで、私は交通事故で左半身麻痺となった。外科治療は終わり、リハビリ期間を経て、制限はあるが、ある程度の日常生活で必要となる作業は、一人でもこなすことができる身体的な状態になった。現在、定期診断、経過観察のため定期的にリハビリ科に通院している。

長らく思うことがあり、先日の診察日に左下肢装具を替えてみることについて医師に相談した。
診察の結果、装具を試す目的で数回リハビリ室に通う診断となった。装具とは四肢・体幹の障害部を補助するために身体に装備する器具のことであり、私は短下肢装具と呼ばれる種類の物を使用している。
例えば、つま先の動作を制御できずに地面に向かって垂れ下がった状態の人は、歩行で足を振り出す時に、つま先が地面に引っかかり転倒しやすくなる。
短下肢装具は、このような人に利用され、下方向に垂れたつま先を前直進方向に強制的に補正することにより、歩行を補助する。このため、以前、私が入院して下肢装具を作成する時、リハビリ科の医師に、もし、私の足首が麻痺していなければ装具は不要であるかもしれない、という説明を受けたことがある。また、人・症状により異なるのかもしれないが、私の場合は、内反足と言われる足の形態異常のために地面と平行に足裏が付きにくく小指の面の方から地面に先に接してしまう。この状態を脹脛のある程度上部の方から強制的に足を固定することにより問題のある側の足を地面に下ろすことを可能にし、また、脚を軸として立つことを容易にすることにより歩行を補助、安定化させる働きがあるように私は理解している。

なお、装具自体には動力は有さない。あくまで関節の動きを誘導するための補助器具と言えると思う。

さて、装具を替えてみた方が良いかと思い医師に相談することにしたのは、次の理由からである。

・装具に頼って歩く癖が身についている気がする
・もう少し歳をとり体力がなくなったら装具に頼る方向がいいと思うが、そうなる前の段階は少し負担を掛けた方が良い気がする

簡単に言えば、体力がある内に身体のバランスを回復する方向に向けるためには、強引に例え僅かであったとしても、体を、そして筋肉を使わざるを得ない環境を持つしかない、と思ったからである。

資金移動の円滑化により市場が活性化するイメージのように、水泳で全身を動かすことは、身体が連鎖してバランスを持って動こうとするような気がするので、素晴らしいことのように思える。但し、資金を動かし始めるきっかけを作り出すのに苦慮するのとは異なるのかもしれないが、プールに行くのは何となく面倒であったり、他にやりたいことがあったりと、行動を起こすことを阻害する身体の働きがあることはよくあることで、なかなか足まで始動指示が行き渡らないことが多々ある。

言い訳であろうが、体のために時間をとる、ということは簡単には出来ることではないので、日常生活の中で必然的な改善活動につながる方向に持っていく必要があると考えた訳である。さて、リハビリ科の診察の翌週、リハビリ訓練室を訪問。受付を済ませ、待合ソファーに座り理学療法室を眺める。

平行棒に必死に捕まり立ち上がろうとする人がいる。また、平行棒に手を軽く触れながら前へと進む人がいる。その横を比較的早足で患者が歩いており、やや斜め後ろに立つリハビリ師が軽くその患者の背中に手を当てている。
症状や段階によるのであろうが、訓練室の様子を眺めるとリハビリというのは体のバランスを調整することが重要なことであるように感じた。理学療法室に入ると今の下肢装具に代わる候補として、リハビリ師が簡易装具と呼んでいたが、足先と足関節から太ももの裏側に脚を支える形で伸びているプラスチック部位が、今の装具よりも短い物を出してきてくれた。

『環境が変わると身体がそれに合わせて適用しようと変化する効果がありますね』私が装具を変更することに対する一般論としての意見を投げかけたときに、リハビリ師は言った。・それが良いときもあるし悪いときもあるのだろう。
・それでも、身体が変化を起こそうとしない限りは良い方向に進むことはありえない。
(悪い方向に進むのを加速させる可能性はあるかもしれないが)

たぶん、こんな単純な論拠に基づきリハビリ師は、私の問いかけに答えたのだと思う。

簡易装具を装着して歩き始めると、初めの一歩でつま先が床に引っかかり、前につんのめりそうになる。
それをリハビリ師は予期していたのだろう。素早く、そして優しく僕の腕を包み込むように身体を支える。

私は、一歩一歩、慎重に前に進む。
簡易装具で歩くと、床の感触が直に足へと伝わってくる。
私の足裏は、保護の膜が薄くなり厳しい世の中に直面していることが伝わってきたため、恐れおののいているようで、足指先がいつも以上にくの字形に曲がろうとしているようであった。それは、私の思い通りと言えば良いのか。転ばないように、と右脚に頼るだけではなく、ある程度、安定を保つようにと、左足裏が床に着き、また、左足に体重を掛けることを意識して歩く。床に接する感触をより直に感じるようになったために、この事をより意識せざるを得なくなる。

『トレーニング用として保有することは悪くないかもしれない』

今回、装備した簡易装具は、今穿いているものと比べると、脚に接している面積がかなり小さいものであった。また、脚関節の曲がりを想定したジョイントはなく、薄めのプラスチックのたわみがその代わりとなるものであった。理学療法室にある階段を歩く。足首のジョイントに代わる役目を担う薄いプラスチックが弓なりに曲がる。足首の裏側には装具が当たってしまうが不愉快を我慢すればよい程度に思えた。
但し、強度についてはこの様な動きが積み重なった場合を考えると不安を感じた。転倒する危険性が今より増す可能性のことはさておき、強度的に脆い、というのは大きなリスクであると思う。
リハビリ師の説明によると、この種の装具を利用している人で出張時等の不測の事態に備えて、常時、予備を持ち歩いている人もいる、とのことである。

小さいといっても、それなりの大きさであり、これを常に携帯するのは非現実的である。この装具での長時間歩行は、今の自分の能力的に難しそうなことを考えると、リハビリ師のアドバイスの通りトレーニング用として保持する物品のように自己評価した。

膝を屈伸させるため、上肢をゆっくりと下げる。

ジョイント部がないため、限界まで膝を曲げて良いのか微妙な感じがしたが、アキレス腱の当たる部分がある程度はプラスチックが曲がるようである。
自分の装具に履き替え、同じ様に屈伸運動を行う。
ジョイントがあるため、今、試している簡易装具と同様に曲がるようであり、動きの柔軟性という点では、どちらもあまり変わらないようであった。
もしかしたら安定性と安心という点を考えると、しっかりと強度を備えた今の装具の方があるのかもしれないと思った。
比較のためにリハビリ師が素足に近いという、「より簡易的な」装具を履かせてもらい屈伸運動をする。
あまり引っ掛かりを感じることなく膝を折り曲げることが出来た。
装着してからの開放感が、全然違った。何もない状態に近い方が、自由が利くことは当然であるが、3者を比較すると、新たに導入を考えている装具は、今までの物は柔軟性についてはさほど差がないように思えた。階段の昇り降りなど容易に想定出来る範囲内であっても、簡易装具のプラスチックが延びて負荷が掛かり、装具の耐久性の面で問題が発生することが考えられた。また、この簡易装具は、ジョイントではなくプラスチックの柔軟性に頼る造りであるため、自分の癖に依存した形で装具が変形していく可能性があるそうである。脚の動きを誘導し、また、安定化させる働きのある装具として利用するには不安があるように感じた。

リハビリ師の言うように単なる訓練用として購入するか。

『外で歩くことができますか?』

これからの予定、つまり今回で装具を試すのは終わりにするのか、まだ次回も続けるのかを決める時、この質問を投げかけた。

コンクリート道での感覚を知ることなく新しい装具採用の要否を決めることは出来ないと思った。
他の患者とのリハビリの都合を考えると、朝、早めの時間の方がリハビリ室を離れるタイミングを得やすい、ということだった。翌週、再度リハビリ室を訪問することにしてその日は病院を離れた。

気がする論/はじめに

日曜日, 12月 14th, 2014
気がする。

これは何かの本質を理解する上で、意外と重要な要素になり得ることであると思う。「気がする」、という言葉は他人に対する説得力のない弱気の心の表れであり、例えば、仕事上では不利益となるだけであり評価を落とす要素となることがある。直感、と呼ばれる人の反応は、成功者の結果論を語る場合には、必要な要素として良く語られるのかもしれないが、一般的には、直感に基づく発言や行動は、曖昧であったり、責任感のない言動に取られたりと、あまり肯定的には捉えられていない人の性格を成す一要素であると思う。但し、対象となる物事の本質を知り、そして理解をした上で話が出来ている時間というのは、全ての会話の中でどれ位の割合を占めるのであろうか?ある事象について突き詰めて考えると、また、知識を深めていくと、その対象物に対して自分が如何に無知であるのか、如何に対象物が複雑怪奇であるのか、ということを思い知ることがあったりすると思う。

そのような時に、まごまごと自分の無力を嘆いたところで先には進まない訳である。例え知らなかったとしても、人々の経験で養われ、そして、組織等で共有されたノウハウに基づいて、分かったフリをしながら進むべき道や措置の程度の加減などを判断しながら先に進むことができる、という能力が求められることが世の中には多いと思う。

 

その能力についての議論はさておき、何かの権威を有していない人間の『何となく』、『そんな気』がする、というちっぽけな声の響きを無視して良いのであろうか?

 

以前にも書いたことがあるが、私は病院で見た出来事を良く思い出す。

数ヶ月入院した時に、廊下である初老の女性と話す機会があった。

彼女は、医師の指示する内容のリハビリを遂行する。
その措置を行う事による身体からの痛みという叫びを伏せて。

その結果、症状は悪化を重ね、彼女には改善の見込みが見えなくなる。

このように語るその女性の言葉が、どれだけの客観性を有しているのかは知らないが、言葉を含めたこの女性の外観から何らかの将来へのプラスとなる要素は一見では見当たらなかった。
彼女にとって愚痴のはけ口さえ見つけられればよかっただけのことであり、不満を感じながらもその場を何とかやり過ごして無事に退院して健康体を取り戻したのかもしれない。

但し、常に、何とか我慢すればよかっただけのこと、ということだけではないと思う。

 

病院で、患者は、論理的な医師への説明により物事を進めなければならない、という義務がある訳でないと思う。

 

自信がない。私が偉い人の前で言うのは、恥ずかしいし、失礼だと思う。
でも、私はそんな気がした。

 

体に感じた適切には表現できない曖昧なことを患者と医師の両者で拾い上げることにより、初めてプラス方向に向かうためのやり取りが始まるではないだろうか?

 

これは極端な例かもしれないが、どのような場面であっても、「気がする」という感覚の発生には、非論理に発生する言葉や絵図ではなく、何かしら、それの基となる原因や理由があるはずである。

何にも繋がりのない映像が浮かんできたのであれば、それは神からのお告げかもしれないし、そんな人は、当に常人とは違う天才なのではないだろうか?

 

Steve Vaiというエキセントリックな旋律を奏でる天才ギタリストが、夢の中に出てくる事象を曲のアイディアにしようと、耳にイヤホンをして音楽を聴きながら寝ることにより夢をコントロールしようとした、という内容の記事をある雑誌で読んだことがあるように記憶している。

これは身体や思考に現れる事柄がどんな事にでも非連動的であることはない。もし、非常識な映像を頭の中に描き出したいのであれば、複数ある身体への情報インプットを極力減らした状態にする。そうは言っても何も情報の入力がないと何も始まらないので、その人にとって肯定的な刺激を与えてみた。
恐らくはこんなことなのではないだろうか?
つまり、ここで言いたいのは理由なき反応というのはないのではないか?ということである。そのような訳で、『気がする』、という内容は決して軽んじてていいものではない、と思う。但し、全ての、『気がする』、を捕まえることは可能か?
取捨選択は必要だろうが、少しずつ拾い上げて深めていく要素も人生には必要だと思う。拾われる対象となるかは分からないが、私の気がする話を書いてみることにした。
第1回目の気がする話に続く。
補記)今回に限らず気がして思った内容に理論的な誤り等があれば、指摘頂ければ幸いです。