決められた選択肢から選んだ個性を描いたような点は、少し気にはなりましたが、
名前を書く欄の幅なんて、後で考えれば良いこと。
そんな風に描かれた文字の若々しさと不器用さに惹かれました。
『固い決心、真理探求、花さく里』
初めは、如何にも子供が選びたがるような言葉にも思いました。
でも、果たして、このような言葉が、自分の子供の時に頭に浮かび、
これらの言葉を鏡にして自分を表現/主張しようとしたことがあるかな?という疑問が浮かんできました。
子供の頃の姿を頭に浮かべ、歴史を思い起こしてみましたが、
少なくとも自分には、そのような経験はなかったように思います。
『固い決心をして、目的を果たしてやろう』
小学5年生の時に、そんなことを思ったことはないように思います。
それが故に人生に成功しない今がある、ということなのかもしれません。
『真理を探究する』
考えてみれば、これは意外と教育の場で利用するには怖い言葉であるな、と思いました。
真理を探究は、言わば常識の破壊につながる革新の要素を秘めていると思います。
つまり、科学的に真理を探究することが、学問の世界で行われる活動の一つなのであれば、
教育というのは、世の秩序、安泰を保つために、人を常識に殻に閉じ込める手段であり、
また、未知を解明し、今ある世界観、哲学を突き崩す道筋を描こうとする手段でもある、となりますでしょうか。
そう言えば、小さい頃に、科学者が迫害された歴史を習うことを思い出しました。
それはともかく、教育に限らず、どのような場であっても、
人は真理を追い求めたくなることは、
良くあることなのかも知れません。
『花さく里』
陽の射す草に座り、ただ、前に広がる郷の風景を眺める。
『それぞれの焼き加減が分かるんだよ。
1段目は、まだ、火が弱めで、
2段目は、初めの余熱で、こんがりと。
そして、最後は、少し間を空けてから焼いた。』
なるほど。
僕は、普段から周りのことを、
何も考えずに、ただ、メシを喰って身体を動かして、寝ているだけなので、
世の中の仕組みに、気がつく可能性は、カケラもないが、
世界に意味を込めて生きている人は、僕の周りにはいるもので、
妻の言う、こんな当たり前の事実の説明に、つくづくと感心した。
そういえば、樹木の年輪も、
月日の歴史を記録する雄大な絵巻物である。
歴史は浅いものの、この食料のレシピが産み出された歴史を含めて考えれば、
このケーキの年輪も樹木の物と同じような厚みを持ったものなのかもしれない。
でも、この積み重ねが、目に見える形で示されなければ、
薄っぺらな詰まらない存在、ということであろうか?
人は何でも、数値で表して、良し悪しを示すことを好む。
但し、それが、周りを理解するためには、一番分かりやすいから、
その方法は否定する余地はない気がする。
そうは言っても、多くの人は、一人の人間としては、
世界で数値のように分かりやすい形でさえも、人前で示され、そして、認識されることもなく、
複雑な自然の中に、溶け込み消えていくことがほとんどであろう。
ところで、これからは、データとして、そして、実体の一部として、
人は、目に見える形で価値を与えられて、
世界で保管されていくの時代が到来しつつあるように思える。
何のために、人は人を見て、
そして、何を想像して、愛し、憎むのか。
今までは、そして、これからは。
ケーキを見て、そんなことを思った。
主人は店を閉じてフランスへと移住するそうである。
仕事で海外に飛んだ時、少しずつ集めた物。
そんな彼に惹きつけられたのかもしれないが、
知り合いが、国内、海外旅行で仕入れた物。
芸術家が、棚を間借りして置いている物。
一つ一つの小さな物が、彼の枯れぬ熱意の下に、
色々な所、色々な人を離れて、この一角に集まったのであろう。
その部屋は、まるで、世界の海を廻り帰港した宝船のように輝いて見えた。
こんな店が、また、一つ消えていくのかと思うと残念である。
また、来訪して、主人と話をしたいと思った。
今は少なくなりつつあり、また消えようとしているの個人商店より。
収穫祭
昔からイベントに共通しているのは、
生きること、今で言えば、金に絡むことは、
盛大に盛り上がり易い、ということでしょうか。
世界が広くなった今、
単純に祝えばお金が回る、ではなく、
どのように、どこに回るのかは注目しなくちゃいけないんでしょうね。
■国の目指す場所
平和な世界の構築を考える上で、
重要なのは経済的な側面の充足であると思う。
『世界に広がる市場を如何に自国に都合の良い形に造りあげるか?』
自己本位に進むことはよくあることで、
他国を利用して経済的なヒエラルキーを作り上げること
これは、一般的に、よくアメリカ、ヨーロッパにある国家が、自分の役務としてきたことなのかもしれない。
平成27年4月29日/米国連邦議会上下両院合同会議における安倍内閣総理大臣演説で、
安倍首相は次のように述べている。
『こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。』
繁栄なしに平和はない、ということが、絶対的に正しいことなのかどうかは、私には分からない。
個人個人で求める生活水準は異なると思うが、
経済的な安定のない場所で、生活圏の平和が保たれている、ということがあまり無いということは、一般的な事象であると思う。
それでは、安倍政権は、平和の糧となる経済についてどのような方策を描いているのであろうか?
安倍政権が掲げる経済財政政策『アベノミクス』では、次の4つの視点をベースに、日本経済を持続的成長に導く道筋を示そうとしている。
1.投資の促進
「新しい事業にチャレンジ!!」
大胆な規制・制度改革、思い切った投資減税等を行い、企業の投資を促し、
民間活力を最大限引き出す
2.人材の活躍強化
「個性を活かして・みんなが活躍!」
女性・若者・高齢者等、それぞれの人材がさらに活躍できる環境づくり
3.新たな市場の創出
「大きな課題は、大きなチャンス!」
少子高齢化等の世界共通の課題にいち早く取り組む中で、新たな市場を創出し、「課題解決先進国」へ
4.世界経済とのさらなる統合
「世界の真ん中で輝く日本へ!」
日本企業の世界進出や、日本への直接投資のさらなる拡大
引用元)「成長戦略」の基本的な考え方
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/seichosenryaku/kihon.html
まずは、実体経済の成長より先行して、金融緩和を行い、企業がお金を使いやすくする環境を整えるとともに国が資金を投入し、
マネーフローが円滑化するためのきっかけを与える。
そして、これと並行して、ここで挙げた4つの指針をベースにした政策により実体経済の活性化を促す。
これが、アベノミクスであると思うが、
内容を確認して分かることは、4つの全ての指針に関わる投資・人材・市場・インフラといった重要な要素を、
世界と連携して成熟させていくことを想定している、ということである。
ここでは、少しその例を挙げてみることにする。
★クールジャパン
日本の魅力を発信して、海外では日本発のコンテンツを売り上げ、
外国人を日本に呼び込み消費を促そう、という経済政策である。
参考)クールジャパン政策について 平成27年8月 経済産業省商務情報政策局 生活文化創造産業課
http://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/creative/150817CJseisakunitsuiteAugust.pdf
★少子高齢化とアベノミクス
▶︎本格的な人口減少社会の到来
・総人口は、2050年では1億人、2100年には5千万人を割り込むまでに減少。
▶︎高齢化の急速な進展
・全国の80歳以上人口割合は、2050年は、2010年と比較すると、6.4%→16.5%へ。
参考)国土形成計画(全国計画) 参考データ集 平成27年7月30日 国土交通省国土政策局
http://www.mlit.go.jp/common/001099282.pdf
▶︎ アベノミクスを個人的に分かりやすく説明すると
‘世界も驚く健康長寿社会’を造りあげる一方、‘若者の舞台は世界へ’。
さて、日本に若者がいなくなったらどうしようか?
‘高度な能力を有する外国人の皆さん、いらっしゃい!’
(‘’内は、アベノミクス方策より引用)
引用元)改訂!やわらか成長戦略~アベノミクスをもっと身近に~ 2015年5月内閣官房
http://www.kantei.go.jp/jp/topics/2014/leaflet_seichosenryaku.pdf
★将来の日本市場
アベノミクスは、将来の日本への道筋を示そうというものである。
それでは、アベノミクスの前提となる将来の日本はどうなるのか?
▶︎将来の日本のGDP予測
2050年のGDP予測が、幾つかの組織から公表されている。
調査組織により予測内容は異なるが、
共通していることがある。
それは、日本が世界で後退していくことと、中国が世界第1位であることである。
参考)PwC、調査レポート「2050年の世界」を発表し、主要国のGDPを予測‐2020年以降、中国の成長は大幅に鈍化するものの、世界の経済力の新興国へのシフトは止まらず
http://www.pwc.com/jp/ja/japan-news/2015/world-in-2050-150227.jhtml
また、未来を想像するために、現在のアジア地域の経済構造を説明する次の資料が興味深い参考資料となるかもしれない。
参考)国土形成計画(全国計画) 参考データ集 平成27年7月30日 国土交通省国土政策局
http://www.mlit.go.jp/common/001099282.pdf
⇒ 20ページ目「アジアにおける中国のプレゼンスの増大」
民主主義の制度は、多数決により国の方向性を決める。
少数派の意見が反映されるように配慮した仕組みがあったとしても、
簡単に言えば多数派が強い制度である。
国際関係を考えても同じことが言えて、
民主主義の選挙とは異なるが、
人口が多ければ、やはり強い国となるのは言うまでもないことと思う。
人が多ければ、需要側としても、供給側としても強者になれる高い可能性を持つであろう。
そして、経済的に見れば、その国の存在が大きな意味を持つようになる。
国の経済、安定を考えるのであれば、人口の多い国は、敬意を持たれることになり、
結果的に、高い存在感と発言権を持つことになるであろう。
民主主義の世界で、弱者の方へと向かいつつある日本国の将来。
2050年には、どのような経済世界がアジア圏には構築されているのであろうか?
■戦後の日本
過去を振り返ってみる。
産業革命以降、一方的な経済圏確立が、戦争の苗床となった歴史がある。
また、それにより、現在も継続して苦しんでいる地域や人々がいる。
このことは、多くの人々の共通認識であると思う。
『世界に広がる市場を如何に自国に都合の良い形に造りあげるか?』
過去の歴史の反省を踏まえると、ただ綺麗なだけの言葉に聞こえるかもしれないが、
特に、持続的な成長が難しいと予測される日本のような国にとっては、
関係を持つ双方の国が共に適度なレベルで都合がよい関係を保持できる経済圏を構築していくことが、
経済社会の安定成長に必須であると思われる。
ある国が経済的な格差で苦しむこと。
それは、安倍首相の言葉を使うのであれば、繁栄を産まない地域に『戦争の苗床』を育てることになるのであろうし、
他の国々は、その紛争の種が育つのを恐れて、軍事力の増強が必要となるかもしれない。
戦争に関わることにより、市場に生産と人の需要を産み出し、
持続的な経済成長が実現されるのかもしれないが、
人が幸せに暮らす世界を目指す道からは逆行した方向になるかもしれない。
今度は、隣国との関係構築について、もう少し概念的に考えてみる。
より深い経済関係を結ぶことになる隣国から、一目置かれた存在になるためには、どうすればよいか?
国の折衝力が必要となるのと同時に、人と人との感情のつながりを持つことが重要であると思う。
生の人間が、そして友達が苦しむ姿や死ぬという感覚は、不幸の道へ進むことへの抑止力へと繋がることが想定されるからである。
人は自分の目の前に具体的な人間を描くことができるのであれば、
特に体裁を重視する人にとっては、安易にその人間の不幸を願うことはしないが、国家レベルの折衝しか想像出来ずに、ただ憎みあうことはよくある。
日本と近隣諸国の関係も、残念ながら、これに近い部分があるのかもしれない。
ここで、戦後の日本の中国、韓国との関係に目を向けてみる。
日本は、中国、韓国といったアジア地域に多くの援助を行ってきた、と自称する一方、
中国・韓国とは、必ずしも感情的に友好な関係を築いているとは言いがたい。
日本としては、『何でここまでやってやっているのにどうしてなんだ?』という嫌悪感が一部にあるように思える。
日本人にとって、認識しておいた方が良い、と思う基本事項がある。
それは、日本は『未来志向』という言葉を使ってはいけない、というよりも使っても意味がない。
『未来志向』という言葉を利用できるのは、中国であり、また韓国である、ということである。
分かりやすい例を挙げて説明すると、
牢屋から出てきた人間がいた場合、彼に対し、
『くよくよ何時までも悩み、苦しんでいないで未来志向で頑張りましょう』
と、声をかけることは、倫理的に人の間で許容されるかもしれない。
但し、刑期を終えた本人が、
『もう終わったことなんだから、未来志向で行こうぜ!』
と、周りに諭すように言ったのであれば、反感を買うのではないであろうか?
日本は戦争に負け、戦犯者が裁判所で裁かれたわけである。
もし、仮に本当は無罪であったとしても、
周りはそうは思っていない、という現実を受け止めて行動するしかないのであろう。
重大な事件の容疑者とされた人間がどのような目にあうのかは、誰もが良く承知していることである。
日本という国が、常に畏まるべきである、ということを言いたい訳ではない。
中国・韓国に対して国が正論を述べて、国益に沿うように主張・折衝していくことは重要であるが、
それだけばかりでは無意味であり、中国・韓国が感情的に、『過去ばかり見ていないで、未来志向で行きましょう』と言い易い環境を作ってあげることが、
日本という国や日本人の果たすべき役目であり、
自国の発展を促すために必要なことであると思う。
ところで、このあたりの人間関係のやり取りは、
私はとても苦手であるが、
日本人は、一般的に、人を持ち上げて自分に都合良い状態を作り出すことに鋭意努力する人が多い気がする。
この能力が、ある場面になると、途端に活用できなくなるように見えて、
私には不思議に思えてしまう。
また、安保法案について、『中国・韓国以外は賛成している』という声を聞くことがある。
統計的にこれが正しいのか誤りなのか知らないが、
他国からみて、これが合憲なのか違憲なのかという視点で見て判断しているわけではないのは明らかであろう。
つまり、本質的に民主主義なのか、法による統治がなされているか、ということは他国にとってはどうでもよいことであり、
自国の国益に見合っているかどうかで判断していることになる。
日本人が国益のために、他国の言葉を利用するのはいいかもしれないが、
賛意を示す他の国が自国の国益に基づき行動しているのと同じように、中国・韓国も自国の国益に見合うように行動しているだけである、
ということを日本人は理解し、無闇に敵意を示すべきではないと思う。
■国策と安保法案の位置づけ
改めて安倍首相に米国での演説を紹介したい。
『日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。』
『太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。
そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私達には、その責任があります。』
『自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。
それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。』
引用元)平成27年4月29日 米国連邦議会上下両院合同会議における安倍内閣総理大臣演説
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0429enzetsu.html
米国、日本の価値観を、経済の力、軍事力を用いて、アジア地域に押し付け支配していきましょう、
と宣言したと理解できると思う。
もし、仮にアベノミクスが素晴らしい政策であったと評価したとしよう。
その前提が正しかったとしても、アベノミクス/安保法制という国としての一貫性のないように見える方針を、
揺ぎ無く一貫して主張する政府を貴方はどのように評価しますか?
それぞれの官庁は、理屈に沿った正しい判断をしているのかもしれない。
但し、その官庁を統率するはずの政治家は、
明確な国家の指針を持っていなかった、ということに他ならないのではないだろうか?
『戦争法案』
この言葉を用いて安保法案に反対する声があるが、
個人的には、この言葉を持ち出す思考回路がどうしても理解できない。
この法案のみを論じること
- これは、対処療法についての議論である。
病や傷が、これ以上重くなるのを予防する措置をすること、健康を整えること、
つまり、国の方向性について論議することが、
明るくない将来を描いているこの国に対して、今、一番求められていることだと思う。
日本は、少子高齢化先進国である。
繰り返しになるが、これは、世界での日本マーケットの縮小であり、
世界の中で、日本という国の経済的な魅力が大きく減衰していく可能性が大きいこと。
また、国内から外へ発信力の体力が弱まっていくこと、を示している。
そこで、例えばクールジャパンといった日本の魅力を広めていこうという国家的な取り組みがある。
そんな中、世界の嫌われ者かもしれないアメリカとがっちり握手をすることは危険ではないであろうか?
世界で唯一の超大国であり警察という位置を自ら退こうとしているアメリカ。
戦争法案という名前を持ち出すよりも、
・既に国家の戦略として破綻しているのではないか?
・それでは、どのような道を進むべきか
・クールなジャパンをどう売り込めるか?
というような議論が重要であると思う。
また、逆に賛成なのであれば、例えば、次のような議論をすべきであると思う。
・アメリカと仲良くすることのリスク回避策として、他にはどの国との連携を深めていくのか?
私は世界経済や国際交流について、恥ずかしながら、よく分からないので想像でしかないが、
例えば、
『イスラム諸国とのゲートウェイとなり、
また、人口も多く経済的な発展が見込まれるインドネシアとの交流を深めることが、
日本のリスク回避策ではないか?』
・将来、アジア地域でのアメリカの影響力が低下したときの、日本の対応戦略
・国際的な日本への評価/美しい日本と日米同盟の関連性は?
・日本のアジア圏での戦略とアメリカと同調してTPP参加とAIIB不参加を進める意義とリスク
・アメリカが日本に反する政策を展開したときに対応は?
(アメリカ以外の逃げ道は作ってあるのか?)
私は知識がないため、少ない例しか挙げられていないが、
専門家や勉強中の学生が議論を始めれば、いくらでもこのような議題は出てくるのかと思う。
そうは言っても、選挙は既に終わっており、時すでに遅し、であり、
今となっては、仕方ないので、人の目を引き、興味を引き立てるために、『戦争』や『違憲』という言葉を利用しているだけなのかもしれない。
議論する時間はもう残されていないのだから。
つづく・・・
安全保障関連法案が議論されている。
この字面から判断するに、日本国の安全を保証するための法案について議論している、
ということになる。
戦争法案だから/違憲であるから、という反対論、
そして、自衛のため/世界の一員としての責任を果たすため、という賛成論があるように思う。
正確には理解できていないのであれば、申し訳ないが、
個人的には、反対論も賛成論も、何故そのような論理展開となるのかが理解できていない。
重要な法案であり、誰もが論議するべきことと考える。
このため、今回、私の意見を簡単にまとめてみた。
■前置き
戦争、という言葉を聞くと、よく思い出すことがある。
十年ほど前、中国青海省の西寧市の長距離バスターミナルで。
西寧市に、その周辺を旅行するための拠点として、何度か宿泊した。
西寧から地方へ向かうために、バスターミナルを何度か訪れた。
あるとき、バスに乗るわけではないが入り口近くに座っているお爺さんと話をすることがあった。
『アメリカやロシアは、あんなに多くの原爆を持っているのに、何で使わないんだい?』
嫌味としての発言であったようにおぼろげに記憶している。
個人的には、その理由は分かっているつもりであったが、その人には、上手く気の利いた回答できなかったことを覚えている。
■違憲という観点について
『安保法案は、日本国第9条に違反している。
そのため、この法案を成立する必要があるのであれば、
立憲国家である日本国としては、まずは、憲法改正を行うべきである。』
安保法案に反対を唱える人々の、反対への論拠が、このことであることが多いように思う。
日本国憲法第9条を確認してみる。
—————–
第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
—————–
日本語をある程度解する人であれば、明確であると思うが、元々自衛隊の存在は、第9条に反している。
そして、安保法案は、その自衛隊の存在を肯定した前提での法案であるので、違憲であるのは明らかである。
但し、留意すべきことは、多くの国民は、次の事項を合意していると考えられることである。
『憲法解釈により自衛隊は合憲であること』
参考)防衛省・自衛隊ウェブサイト
憲法と自衛権 http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html
自衛隊の存在についての賛否数を示す資料を持たないので正確な判断はできないが、
少なくとも自衛隊の存在自体を議論することは、殆ど行われていないのが現状であり、
憲法は政府解釈により決まることが有り得る事態を許容している、と考えられる。
今回の法案が合憲であるのか違憲であるのか?
安倍政権は、『法的安定性は確保されている』というのが正式見解である。
つまり、憲法解釈の論理的整合性は、過去現在で確保されている、ということであるので、
今までの自衛隊に関する過去の経緯とあわせて考えれば、合憲であるはずである。
但し、整合性の確保について
-これが、議論の対象である、
ということであれば、
現在の解釈説明が、過去と比べて何かしらの差異が発生しているということになる。
もし、その差異について安倍首相が説明してきていない、ということであれば、
それに対する国民の反発があっても、それは奇妙なことではない。
但し、今、安倍政権が行おうとしていることと、以前から安倍首相が発言してきていることに、
大きな違いは発生していないように思える。
感覚でしかないため、念のため、2014年12月衆議院総選挙前の安倍首相の発言を確認してみる。
—————–
平成26年10月26日
防衛省・自衛隊60周年記念航空観閲式 安倍内閣総理大臣訓示
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/1026kunji.html
以下一部抜粋
『戦後60年以上続いてきた、平和国家としての日本の歩みは、これからも変わることは決してありません。日本国憲法が掲げる平和主義の理念は、世界に誇るべきものです。
しかし、それは、内向きな「一国平和主義」であってはならない。世界は、ますます相互依存を深め、一つの地域で生じた危機が、世界に波及する危険性は、一層高まっています。
こうした時代にあって、「自国のことのみに専念」するような態度は、真の平和主義に忠実なものとは言えません。
今こそ、我が国は、「積極的平和主義」の旗を掲げ、世界の平和と安定に、これまで以上に役割を果たしていくべきであります。それこそが、憲法が掲げる平和主義の理念に、より適う道だ、と確信しています。』
以上
—————–
この文面を読むと、安倍首相の考え方が総選挙後に変わったわけではないし、
また、隠していた意見を、唐突に持ち出してきたわけではないことが明確であると思う。
安倍政権に対する考え方について、全ての方針に賛意を示したのかどうかは分からないが、
国民は選挙で政権を担うことを、安倍首相に託したわけである。
国民が選んだ安倍政権は、予てから示していた方針に従い法律を定めようとしているだけである。
もともと自民党に対して反対を唱えていた政党や人々が、
安保法案を『違憲である』、
と反対を唱えるのは理解できるが、
憲法は解釈により決まるという前提である以上、
安保法案が原因で内閣支持率が下がる、という現状が発生する理由を論理的に解釈することは難しい。
数字の分析をすることが目的ではないので、
前回の衆議院総選挙での自民党への投票数や支持理由の分布等の分析結果確認は行っていないが、
『立候補者は、自分の政治方針を示し、それを聞いた国民が投票を行う。
そして、選ばれた政治家が政治を行う』
という民主主義という制度を採用している以上、
一貫して仕事を行っている政権に対して、
初めから主張していた政策に対して違憲かどうかといったことや、
主張に従って実施している政策が原因で支持率が下がっていることに対する論評を
人々やマスコミ等が行うことについて、個人的には全く理解できない。
どちらかと言えば、それぞれ自分自身の行動や、安倍政権を選択した国民全体に対する論評を行うべきではないかと思える。
■戦争法案という観点について
『戦争と平和』
戦争がなければ平和、というように思えばよいでしょうか?
このように思っている人は、殆どいないと思うが、
『戦争』という言葉が出ると初めて過剰に反応する、ということが多いような気がする。
表面的に問題が現れていなければよい、という風潮はよくあることと思うが、
それは、致命的な事態かどうか、とは別の話である。
世界は一つのマーケットである。
他国との関係なしには生きていけない世の中において、
戦争になるということは、かなり致命的な段階まで達した、ということもあるであろう。
また、本当にどうにもならない致命的な問題であれば、戦争する力もなく表面化しない、となるのかもしれない。
あまりに戦争、という言葉に着目しすぎることにあわせて、
個人的に理解できないのは、『原爆反対』ということの論理である。
『戦争という致命的な段階に達した場合、人は何をするか分からない、
だから、せめて原爆という大量破壊兵器を保有するのは、止めておこう』
もしかしたら、こんなような論理になるのかもしれない。
このような戦争を制御しようという論拠が語られることがあるかもしれないが、
『原爆反対』ではなく『戦争反対』ということのみを伝えていかないと意味がないと思う。
原爆は、戦争の悲劇を語る上での一つの事例にしか過ぎないはずである。
第一、国際法に従った戦争が行われる、というのは、
スポーツであるまいし、そもそもナンセンスな話である。
『生きるため、死なないため』
まずは、コンプライアンス。
命がかかった瞬間でも、国や人は、法令順守や約束を前提に行動するものだ、
と考えるのは、かなり困難であると思う。
もう、戦争が起こった時点で終わりである、という理解の方が、正しいのではないだろうか?
もし、現在・未来において、戦争という危機的状態が起こるかどうか、
という議論があるのだとすれば、
まず、議論が必要なのは、戦争時や抑止力としての武力の行使ことよりも、
世界、または日本国において、戦争が発生する可能性となる要因とそれに対する対策、
ということではないだろうか?
戦争、という言葉のみを議論しても何の意味もない。
ところで、『生きる』、ということを考えたときに、まず重要なのが経済である。
今、一国に閉じた市場ではなく、世界が一つのマーケットである。
その巨大マーケットを、自分に有利になるように構築できるか?
このことが各国の大きなテーマの一つのであると思う。
安倍首相は、米国とともにアジア圏の社会を作り上げようとしている。
そのことを、米国連邦議会上下両院合同会議における安倍内閣総理大臣演説で、
米国に、延いては世界各国に向けてと言えると思うが、そのことを宣言している。
—————–
当ウェブサイト記事:米国連邦議会上下両院合同会議における安倍総理大臣演説
http://blog.broken-robot.com/?p=2578
—————–
その具体的な対応の一つとして、安倍政権は、存立危機事態への対処が必要であり、
その対処として、武力行使を可能にする条件の変更が必要である、と言っているわけである。
武力行使のための新三大要件としては、次の内容を挙げている。
—————–
(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、
これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
—————–
(2)に挙げているとおり、他に手段がないこと、という事態に陥り戦争になるという論理であるのであれば、
あわせて、危機的状況に陥る前の、『その他手段』についての議論を行わないことには、
全く意味がないことになるのではないだろうか?
この安保法案を成立させてしまうと、
法律の制定する目的とは逆に、存立危機事態を招く可能性はないのであろうか?
この観点での議論は、十分になされているのであろうか?
『平和』
この言葉の意味がよく理解できていない。
『我が国及び国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制の整備』ができていれば戦争はない。
そうであれば、平和と安全が保たれ幸せになれる、ということであろうか?
食中毒防止月間
小学生にポスターを作らせて、競わせる、
という展示会をやっていた。
今と昔では、全く人の性格や状況は違うのかもしれない。
まあ、元々、時代に関わらず人により、思う事、やる事は違うんでしょうが。
今回は、僕の思いが一般論と仮に定義する。
その仮の定義に従うと、
小学生ぐらいの年齢になると、大人や先生の思いを察して行動してあげることが求められる。
大体の小学生は、その思いを汲んで行動してあげることが多かった。
今も状況は同じでなんでしょうか?
意見など何かを表現する場面となると、
リスクを回避する意図や時間を効率的に利用する意図など人により理由は異なるかもしれないが、
一般的には、典型的な物や文章をコピーして意見を表すことが多くなる気がする。
僕が見ている物量や場面の少なさが一番の原因かもしれないが、
このような展示物は、似通った絵や標語が描かれていることが多い。
この展示会も、そのいつもの典型に即したものであるように見えた。
但し、今日は、それを批評したかったわけではない。
何点か当たり前のことを、今更ながらに教えられたことがあったので、
それを紹介したいと思う。
『生ものは危険』
そうだ。
生き物は、たいてい危険な物だし、
そんな生きている物を食べるのは危険かもしれない。
見えないだけで、どんな棘を準備しているのか分かったもんじゃない。
そう言えば、イスラム教で豚を食べてはいけない、と決めたのは、
生で食べると体に危険であるからである、
という説があるのを聞いたことがある。
生活上の知恵を社会に広めることにより
社会のルールと秩序を創り出すのが、宗教の役割と考えると、
この展示会も同じことかもしれない。
賞味期限
その日にちを、昔は見る必要はあったのか?
長らく求められてきたその情報が、
科学の発展により、数値化され、見える化することが実現できた?
違うんじゃないかな?
その期限を肉体で感知する力はあったんじゃないかな?
第一、賞味期限は昔よりも伸びているはずだし、
現代では、健康へのリスクも減少しているのではないか?
ところで、その異常に延びた賞味期限を成立させた原因は、はっきりと見えず、また感じることは難しい気がする。
よく分からないが、これが宗教と科学の闘争であり、
今は、科学と人間の調和を図る科学であるレギュラトリーサイエンスと言われている物の役目なのかな?
何のまとまりもないが、
この展示会は、ある社会の縮図を示しているように感じた。
また、自分が今の世界の成り立ちや、今、どこに進もうとしているのか、
全然分かっていないことが、よく分かった。