本人は勇気を奮ってやったことであっても、
人からは無視されるか、馬鹿にされるだけでしょう。
理解を求めることはできないかもしれない。
それでもやらなければいけない時もあるのでしょう。
本人は勇気を奮ってやったことであっても、
人からは無視されるか、馬鹿にされるだけでしょう。
理解を求めることはできないかもしれない。
それでもやらなければいけない時もあるのでしょう。
しばらく包丁の刃を研いでいなかった。
先日散歩した時、
『包丁研ぎます』
と書かれた旗を見た。
日にちは5月10日で、今日がその日であった。
包丁を持ち、その場所に着くと、一人の麦わら帽子を被った人が
黒くなった熟練の手を前に後ろにと手を動かしていた。
『暑いから、その日陰で待っていて下さい』
その人は僕の不自由な足を見ると、自分の病気を打ち明ける。
初老の身体に無理をしているのかもしれない。
もともとはカメラ屋を営んでいたそうであるが、このデジカメの時代、商売上がったりであったそうだ。
特に同情を求める訳でもなく、淡々と語るその姿。
知り合いに勧められ、今日はここに座ることにしたとのことである。
本日の売り上げを聞くと、金額を聞くつもりではなかったが、
商売というのはこんなもんだと、具体的な札数を答えてくれた。
『切れるから気をつけなよ』
その人は立ち上がり手を差し出してきた。
また次の機会に会えればと思いながら、僕らは握手を交わし別れた。
生き物が生きる
それにより自分の健康を汚すことはよくあるだろう
自分だけでなく、他人の健康も汚すこともあるかもしれない
更に、生きるだけでなく、
死んだ後も人の健康を左右することもあるのが
厄介であり幸せでもある
今日、幾つかの生命を終わりにさせた。
今日も、と言った方がもしかしたら正しいのかもしれない。
妻に呼ばれて部屋に入りカーテンに近づくと、白い彼女が卵を産んでいた。
僕らが決めた領土に足を踏み入れた彼女が悪いのか?
ちり紙で彼女を包み込み、充分な力を込めて彼女の命を絶つことが自分の役務だと思った。
僕の手を止めて妻は言う。
彼女を外へと飛び立たせてあげよう。
窓を開け、そしてカーテンに手をかけ、そろりそろりと揺らす。
彼女の持つ全てを伝えるために力尽きたのか、彼女は必死に布に掴っていたのか。
どちらであったのか、どちらでもないのかは分からないが、彼女の身体は微動だにせず、上へ、そして下へとカーテンの波動の上をゆらりと流れていく。
やがて、宙を舞いバルコニーの床に落ちた。
死に体に見える彼女にクリアファイルを差し出す。
足を滑らせながらシートの上に載る彼女を壁の上へと降ろす。
彼女は、圧力のない風に吹き飛ばされるように、力なく木の枝へと落ちていった。
カーテンについた卵を、空いている窓の外に出て、叩いてあげればよいものを、始めの義務を思い出したようにちり紙でその粒を擦り落としてゴミ箱に捨てた。
JC国史会議議長の棟久裕文(むねひさ・ひろふみ)氏は「日本では自国を誇りに思いながら、建国は知らないという矛盾した状況になっている。グローバル社会に向け、義務教育段階から建国を含めた国史教育を充実させていく必要がある」と話している。
引用元
産経新聞
2月11日 7時55分配信
建国の日「知っている」2割未満 米中では9割超 「自国誇り」は7割
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150211-00000086-san-soci
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矛盾した状況というが、本当に矛盾した事象だろうか?
誇りに思う、という人が多い時点で、国の教育事業は大成功を収めている、と言えると思う。
建国記念日は、神武天皇が即位した日であるとのこと。
その日の起源を知らない人が大多数である。
社会は、このような人々により創られたものであり、そして、今、人々が重要として敬う事柄が社会風景として表れているはずである。
何の情報を押し付ける事が教育だろうか?
この新聞記事には、中国、カナダ、米国といった国々では、ほとんどの人が建国の日を知っていると紹介されている。
これらの国々の人々の間では、多民族国家という自覚に満ち溢れていると思われる。
そのような国の数値と比較することに意味があるとすれば、国家の過剰な統制や戦争を想起してしまうのは当然の事に感じる。
現実に表れている風景と棟久氏の言う矛盾とが同居する社会を知ること。
このことの方が、歴史教育として意味があると思う。
「寒いとヨッパラワナイ
後ろのポッケにニッカを突っ込んで
昼間から飲んでた」
バス停の待合室。
僕もそれに倣ってみた。
ビールしかなかったけど、試してみた。
とっても寒くなって、震えが止まらなかった。
除雪車が小気味よく走り回っていた。
■テロ非難決議の全会一致採択
衆議院で、テロ非難決議が全会一致で採択された。
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◆産経ニュース 衆院の非難決議全文
http://www.sankei.com/politics/news/150205/plt1502050019-n1.html
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また、衆議院に続き、参議院で同様の決議が、全会一致で採択された。
参議院では、決議内容の修正を求める山本太郎参議院議員が、採決を棄権したことが報道されている。
インターネットで、その棄権に関する情報を検索すると、退席した山本議員への賛同者はいるものの、多くの人が同氏の行動に対して異を唱えているようである。
山本氏は自らのブログで途中退席した理由と、修正案として提案した3点を説明している。
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◆山本太郎氏ブログ
http://ameblo.jp/yamamototaro1124/
◆修正案(上記ブログより抜粋)
①今回の事件の検証。イラク戦争の総括を含む。
②特定の国名の明記を避けた関係各国への謝辞。
③英訳文を同時に用意する事
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私は、山本氏の政治的思想を知らない。
但し、同氏のこのブログ記事を読むと非常に論理的であり、かつ自分の役務や責任を理解した上で、決議の修正を促そうとしていることを読み取ることができる。
一方、国会議員や多くのマスコミは、同氏の主張に対して、批難するか、無視を決め込む様相である。
決議の採択により、『テロに屈しない』という正義感に満ちた言葉に基づく総意の決意を示すことができた、というセンチメンタリズムに溺れているのであろうか。
本事件は、テロリズム、という言葉を使っている時点で、刑事事件とは全く異なる事象である。つまり、当決議は完全に政治的なものであり、今後の日本のアラブ地域への政策方針を宣言するものとなるはずである。
当然、ここで示す政治的方針は、今回の事件が発生した原因や、事件の発生した地域に対するこれまでの日本の政策実績評価を踏まえた上での決意を示すものでなければならない。
もし、この決議が、『日本国は、米国主導の有志連合に積極的に関わり世界の安定に向け貢献していく』、という決意の表明であれば、決議文の内容は理解し易い。
但し、『日本は、軍事を伴う有志連合からは一歩離れて、人道支援に徹することにより地域の安定に貢献する』、という決意の表明であれば、ヨルダンの国名を安易に掲げるのは危険である。
今回の事件で、表面上報道で一般に公開された情報だけを考えても、このような文章から、日本の国会議員が今回の事態を全く検証していないことが分かる。
端的に言えば、『テロを許さない姿勢』と『人道支援』を駆使した訴えと、『海外の在留邦人の安全確保』がかみ合わなかった今回の結果から目を背けている訳である。
また、『英文訳が必要だ』、というのを完全に黙殺していることからも、この決議はあくまで日本の内向きに対する決意であり思想統制的な意味合いが強いことが分かる。
少しでも翻訳をしたことがある人であれば、知っていることであろうが、文書を正確に翻訳することは、基本的には不可能と思った方がよい。
主語や目的語が文章中では不明確であったり、省略されていたり、また、翻訳先の言語には存在しない概念の単語があったりする、ということはよくあると思う。
このため、翻訳文は、訳者の理解(それに伴い必然的に思想を含むことも有り得る)で文章の補完しながら作成していく必要がある。
今回の日本政府のイスラム国への主張を正当とするのであれば、今まで日本は人道面での活動しかしていないわけであり、イスラム国は悪意を持って安倍首相の発言を誤解した訳である。
自分の用いた言葉を、再び他者に上手く利用されることがないようにするための措置を取ることが政治的配慮である。
同じ言語内でも、推敲した原稿を準備して発言を行う理由の一つに、誤解されることを防ぐ、ということがあるであろう。
他言語圏の人が、誤解することは簡単である。
このように、この決議から分かることは、日本の国会議員には、今回の事件を教訓にして、原因やその対策を考えようというつもりは毛頭ない、ということである。
殆ど日本の政治家が、テロという言葉を利用することにより、日本世論を制御していく行動に徹しているのであろう。
政治家は論理的に話すことが難しい職種であるのかもしれない。
但し、山本太郎氏のような論理的な正論を排除するだけでは、何も解決することはできないと思う。
■日本人のルーツとは
Facebookで次の記事が紹介されていました。
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■題名 「日本人」はどこから来たのか
桃山学院大学名誉教授 沖浦和光さんへのインタビュー 10代の人権情報ネットワーク Be_FLAT
■ウェブサイト http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/
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この記事を読んで、少し怖くなりました。
一般に日本人と呼称される民族について、科学的に解明されてきた歴史的な成り立ちの説明は、非常に興味深く、そのことについて学者や研究者が人々に広報することは、非常に有意義なことであると思います。
しかし、その研究成果の報告ではなく、民族や国家の概念について無知な人が多い、ということが、この記事の成立条件であるということが、私が怖さを感じた理由です。
恐ろしさを感じる理由について例を挙げると、例えば、記事の結論部分に、次のような文面があります。
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~ 国家や国民という概念は、現在、力をもっている者がつくった政治的な構築物であり、本来の民族とは別のものであるということです。~
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この文章には、『反権力』という色が見え隠れするため、読む人に誤解を与える可能性があるかもしれませんが、記述されている内容は、年齢に関わらず理解が容易な単純明解な内容です。
民族と国家共同体について、遠い昔には世の中で完全一致しているケースが、もしかしたら、存在したのかもしれませんが、国家の併合を繰り返しながら到達した現代社会では、恐らく存在しないか、あったとしても非常に稀であると思います。
このため、『国民や国家は、民族とは別のものではない』、という概念を持つことは、わざわざ丁寧に説明されるまでもなく、論理的に非常に困難です。
この記事は、10代青少年向けの文章である、という前提があるのかもしれませんが、現在、このように至極当たり前のことを、世の中の考え方を正すというような意図で教育的に語らなければならないような社会状況なのでしょうか?
もし、この文面が現代社会を示す上で適切である、というのであれば、この社会は、部外者の存在を排除し多様性を許容しない極度に硬直された場所である、ということを示すことになってしまうのではないでしょうか。
■民族とは何か
ところで、上に挙げた記事の結論部分を、常識的な概念として示しましたが、実は、私が理解できていない箇所があります。
それは、『本来の民族』という言葉です。
民族とは何でしょうか?
学生のころ、民族という言葉の定義の難しさについて友達と話すことがありました。
その話題は興味深いことではありましたが、この言葉の意味を突き詰めることは、単なる言葉遊びに成りがちであり、長期間に渡り継続して考えることはありませんでした。
もし、民族という言葉の意味やその定義に従った人の分類を分かりやすく決めてしまうのであれば、例えば(現在の中国パスポートや制度については把握していませんが)中国のようにパスポートといった身分証明書に、その個人に登録されている民族名を示す、ということになるのかもしれません。
ここでの民族の定義は、国家が何かしらの意図を持って決定する判断基準に依存することになります。そして、人の分類は、その判断基準により抽出された選択肢の中から決められることになります。
但し、その国家で生活することを許容するある人物が、自分に登録された民族であることを気持ち的に認めるのかどうかは必ずしも明確なわけではありません。
『自分の民族は選択できるリストには存在しないよ』
中国の新疆ウイグル自治区のアルタイ地区を旅行した時に知り合った人から、このような話を聞いたことがあるのを覚えています。
これは、極端な例であるかもしれません。
いずれにしても、民族の定義を誰かが決めることはできるでしょうが、科学的に民族と民族の間に、国境線のように明確な境界線を引くことは不可能です。
このため、民族という言葉自体の意味をあまり突き詰めても、意味がないのです。
そうは言っても、その人が所属する民族というものが、一般的には存在します。
民族は、住んでいる場所、話す言葉、人の容貌などの外見により定義され、人の所属先は、その内容と照らし合わせて決まるのでしょうか?
それとも、遺伝子上に民族名を規定する明解な情報が存在するのでしょうか?
民族という言葉の絶対的な定義は、正直、私には分かりません。
恐らく、多くの人も、観念として民族という言葉で集団を判別しているでしょうが、論理的・科学的に明解な定義を区分けしている人は少ないのではないでしょうか?
■人の多様性とグローバルスタンダード
この記事を読んで、改めて、人、及び民族と、それらから構成される国家・共同体の関係性について、自分なりに少し考えてみました。
まず始めに、共同体の目的の一つである発展という点に着目して考えてみました。
共同体が発展していくための前提条件を考えると、人々がいがみ合う状態であるより、安定し秩序のある社会である方が都合がよい、という点が挙げられると思います。
つまり、経済的な側面による社会の安定性確保とは別に、特に、国の発展途上の段階では、そこに住む人々の間での多様性をなるべく排除し、意識を強く共有したつながりを持った方がよい、という方向で社会の構築が進んでいくことは一般的にあり得ることだと思います。
ここで、共同体の人々を結びつける大きな要素として利用が必須なものとして、言語を挙げてみます。
言語は、その土地、その自然の中で、人が生き延びていく上で必要となる知識や思想・意思等の相互理解を進めるものであり、概してその地域社会の人間の生活、文化そのものを示すものであると思います。
そして、言語を人間の媒体として利用することで、初めて共同体の拡大と発展が可能になるでしょう。
また、日本人という民族と言語についても少し考えてみました。
私の言葉の使い方が間違っているのかもしれませんが、一昔前までは、多くの日本在住者が、バイリンガルであったのだと私は常々理解しています。
このように思う一つの例を挙げると、もう20年ぐらい前と古い話ですが、福島に住む知り合いの家に初めて行った時の経験があります。
その知り合いの家には、高齢のお婆さんが住んでいました。
彼女は、私と話をするときは出来るだけ標準語で話そうと努めてくれましたが、家族に向かって土着の言葉で話されると、私は全く理解できませんでした。
また、私の知り合いも、たまに彼女の言うことが理解できないことがある、ということでした。
このことから分かることは、今は標準語のみを理解すれば生きていくことはできるのかもしれませんが、以前は、少なくとも二つ以上の言語を使いこなすことが生活の上で必要な地域、時代があった、ということであると思います。
地方から東京へ来て働いている方とお話したときに、地元の言葉を話すことを恥ずかしい、という言葉を何度か聞いたことがあります。
そのような人々も、いつでもその力を発揮している訳ではないので実力は後退しているのでしょうが、多言語話者であるのでしょう。
また、言葉は人を疎外するためにも利用されることがあると思います。
部外者と評される人間が、ある家庭や地域社会に入ってきたときに、その新参者を仲間外れにする手段として、あえてその人が理解できない土着の言葉で会話をする、という例をいくつかの場所で聞いたことがあります。
言葉というのは、上に述べたように良い部分も悪い部分も含めて共同体の示す一つの重要な要素です。
その言葉が共同社会の統合化と発展が進むにつれて失われていったことは、悲劇と言ってもよいのではないでしょうか。
日本社会の発展と安定化に向けて、標準語といったツールを利用して一つの価値観を共有化することは重要なことであったのかもしれません。
但し、このような現代の日本人という観念を構築する過程において、人間の多様性や多くの文化が喪失していったのかもしれません。
■世界に住む人々のルーツ
今、世界は一体化が進む方向で進んでおり、経済圏の統合とともに価値観を共有しようという流れがあるように思います。
つまり、世界標準化が進むにつれて、日本で発生した多様性の喪失と同じことが、世界を舞台にして進行しているのではないでしょうか。
文化は変化していくものですし、何も失わないで進んでいくことが必要とも、素晴らしいこととも思いません。
但し、過去の日本の発展を参考に全く同じような道を進んでいくことが正しいことであるとも思いません。
歴史を顧みて自分の過去と現状を理解することが、日本人が国際社会で生きていくために重要なことになってくると考えます。
自分への理解を深めることなしには、同じ価値観を有しない他国の人々を理解することも、尊敬することも難しいでしょう。