Archive for the ‘駄文’ Category

芸術と美

水曜日, 4月 27th, 2016
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げい‐じゅつ【芸術】

1 特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産。絵画・彫刻・建築などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・映画・舞踊・オペラなどの総合芸術など。「芸術の秋」「芸術品」
2 学芸と技術。

☆───────────────────< 引用:デジタル大辞泉 >────☆

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げいじゅつ【芸術】

独自の価値を創造しようとする人間固有の活動の一つを総称する語。このような意の日本語としては明治20年前後に翻訳語として始まり,今日では完全に定着したが,この語にあたる西欧語はアート,アールart(英語,フランス語),クンストKunst(ドイツ語),アルテarte(イタリア語,スペイン語),さかのぼってはアルスars(ラテン語),テクネーtechnē(ギリシア語)である。それゆえ芸術の意味を考えるには,芸の正字〈芸〉や〈術〉の語義を中国および日本の文化史に追いもとめる以上に,西洋における芸術観の展開を重んじることになる。

☆────────────────< 引用:世界大百科事典 第2版 >────☆

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芸術
げいじゅつ
art; Kunst

本来的には技術と同義で,ものを制作する技術能力をいったが,今日では他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。芸術という言葉は,利用する媒体や作品の形態によって伝統的に分類される数多くの表現様式の一つを示すこともある。

☆─────────< 引用:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 >────☆

芸術という言葉は、どうやら難しいようだ。

調べてみると、どれもが違う意味にも見える。

『芸術は爆発だ!』

岡本太郎の有名な言葉であるが、その意味は、分からない。

いくつかインターネット上でその言葉を眺め、少しは事前の知識を得た前提となるが、
私の想像した言葉を書いてみる。

 『芸術とは、大地が、歴史を経て、蓄積してきたマグマを吐き出すことをイメージすれば分かり易く、
  人が、人生で時間を掛けて養ってきた一つの結論を、余計な装飾をすることなく、
  そのままの自然な形で、外へと描き出す行為である』

このような意味であろうか?
岡本太郎がどんな絵を描いていたのか知らないので、全くの誤解かもしれない。

辞書にある芸術の意味の戻ると、
個人的には、ブリタニカ国際大百科事典の『他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果』、という説明が、
一番、自然に吸収できる。

何か調べたわけではないので、勝手に思ったことを綴るだけの話だが、
『美』というのは、本来的には、個人的な思いであり、
社会に共通する定義ではなかったのではないか?と想像する。

但し、社会という共同生活の場に於いては、
ある一つの哲学を、一般的に共有するものであるので、
美についても、あたかも物理的な形状として共有するのかもしれない。

美を共通意識として持たなければ、社会は破壊される方向に向かう気もするので、
組織共同体に起こる事象としては、これは、当然のことかもしれない。

今日は、食卓に皿にお菓子を並べて、その図を楽しむ。

食事を美として扱う人、食器を美として扱う人。

私には、それに拘りを持つ思いはないが、その面白さを、少しは理解できるかもしれないと思った。

『他人と分ち合えるような美的な物体』といった高尚な趣味ではないが、
例え、狭い家の中であったとしても、陳腐な喜びを弄ぶ瞬間があることも、
一つの幸せの形として、まんざら悪いものではないように感じた。

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水曜日, 4月 27th, 2016

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よくある感動的な光景

内に秘める生、リズム・秩序を打ち破るが如く弾け出る息吹

大望

月曜日, 4月 25th, 2016
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子孫繁栄
交通安全
商売繁盛

今の自分の安泰と物理的金銭の裕福さ

未来、自分を超えて。
精神的な世界の幸せを願う。
どうぞ、皆が幸せになりますように。

どうやら、この石には、途轍もなく大きな思いが込められているようだ。

人生

水曜日, 1月 27th, 2016
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決められた選択肢から選んだ個性を描いたような点は、少し気にはなりましたが、
名前を書く欄の幅なんて、後で考えれば良いこと。
そんな風に描かれた文字の若々しさと不器用さに惹かれました。

『固い決心、真理探求、花さく里』

初めは、如何にも子供が選びたがるような言葉にも思いました。

でも、果たして、このような言葉が、自分の子供の時に頭に浮かび、
これらの言葉を鏡にして自分を表現/主張しようとしたことがあるかな?という疑問が浮かんできました。

子供の頃の姿を頭に浮かべ、歴史を思い起こしてみましたが、
少なくとも自分には、そのような経験はなかったように思います。

『固い決心をして、目的を果たしてやろう』

小学5年生の時に、そんなことを思ったことはないように思います。
それが故に人生に成功しない今がある、ということなのかもしれません。

『真理を探究する』

考えてみれば、これは意外と教育の場で利用するには怖い言葉であるな、と思いました。

真理を探究は、言わば常識の破壊につながる革新の要素を秘めていると思います。

つまり、科学的に真理を探究することが、学問の世界で行われる活動の一つなのであれば、
教育というのは、世の秩序、安泰を保つために、人を常識に殻に閉じ込める手段であり、
また、未知を解明し、今ある世界観、哲学を突き崩す道筋を描こうとする手段でもある、となりますでしょうか。

そう言えば、小さい頃に、科学者が迫害された歴史を習うことを思い出しました。

それはともかく、教育に限らず、どのような場であっても、
人は真理を追い求めたくなることは、
良くあることなのかも知れません。

『花さく里』

陽の射す草に座り、ただ、前に広がる郷の風景を眺める。

年輪

月曜日, 1月 11th, 2016
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『それぞれの焼き加減が分かるんだよ。
1段目は、まだ、火が弱めで、
2段目は、初めの余熱で、こんがりと。
そして、最後は、少し間を空けてから焼いた。』

なるほど。

僕は、普段から周りのことを、
何も考えずに、ただ、メシを喰って身体を動かして、寝ているだけなので、
世の中の仕組みに、気がつく可能性は、カケラもないが、
世界に意味を込めて生きている人は、僕の周りにはいるもので、
妻の言う、こんな当たり前の事実の説明に、つくづくと感心した。

そういえば、樹木の年輪も、
月日の歴史を記録する雄大な絵巻物である。
歴史は浅いものの、この食料のレシピが産み出された歴史を含めて考えれば、
このケーキの年輪も樹木の物と同じような厚みを持ったものなのかもしれない。
でも、この積み重ねが、目に見える形で示されなければ、
薄っぺらな詰まらない存在、ということであろうか?

人は何でも、数値で表して、良し悪しを示すことを好む。

但し、それが、周りを理解するためには、一番分かりやすいから、
その方法は否定する余地はない気がする。

そうは言っても、多くの人は、一人の人間としては、
世界で数値のように分かりやすい形でさえも、人前で示され、そして、認識されることもなく、
複雑な自然の中に、溶け込み消えていくことがほとんどであろう。

ところで、これからは、データとして、そして、実体の一部として、
人は、目に見える形で価値を与えられて、
世界で保管されていくの時代が到来しつつあるように思える。

何のために、人は人を見て、
そして、何を想像して、愛し、憎むのか。

今までは、そして、これからは。

ケーキを見て、そんなことを思った。

人々と人

日曜日, 11月 1st, 2015

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主人は店を閉じてフランスへと移住するそうである。

仕事で海外に飛んだ時、少しずつ集めた物。

そんな彼に惹きつけられたのかもしれないが、
知り合いが、国内、海外旅行で仕入れた物。

芸術家が、棚を間借りして置いている物。

一つ一つの小さな物が、彼の枯れぬ熱意の下に、
色々な所、色々な人を離れて、この一角に集まったのであろう。
その部屋は、まるで、世界の海を廻り帰港した宝船のように輝いて見えた。

こんな店が、また、一つ消えていくのかと思うと残念である。

また、来訪して、主人と話をしたいと思った。

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土曜日, 10月 31st, 2015

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今は少なくなりつつあり、また消えようとしているの個人商店より。

収穫祭

昔からイベントに共通しているのは、
生きること、今で言えば、金に絡むことは、
盛大に盛り上がり易い、ということでしょうか。

世界が広くなった今、
単純に祝えばお金が回る、ではなく、
どのように、どこに回るのかは注目しなくちゃいけないんでしょうね。

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生き物/宗教

日曜日, 8月 16th, 2015
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食中毒防止月間

小学生にポスターを作らせて、競わせる、
という展示会をやっていた。

今と昔では、全く人の性格や状況は違うのかもしれない。
まあ、元々、時代に関わらず人により、思う事、やる事は違うんでしょうが。

今回は、僕の思いが一般論と仮に定義する。

その仮の定義に従うと、
小学生ぐらいの年齢になると、大人や先生の思いを察して行動してあげることが求められる。

大体の小学生は、その思いを汲んで行動してあげることが多かった。

今も状況は同じでなんでしょうか?
意見など何かを表現する場面となると、
リスクを回避する意図や時間を効率的に利用する意図など人により理由は異なるかもしれないが、
一般的には、典型的な物や文章をコピーして意見を表すことが多くなる気がする。

僕が見ている物量や場面の少なさが一番の原因かもしれないが、
このような展示物は、似通った絵や標語が描かれていることが多い。
この展示会も、そのいつもの典型に即したものであるように見えた。

但し、今日は、それを批評したかったわけではない。

何点か当たり前のことを、今更ながらに教えられたことがあったので、
それを紹介したいと思う。

『生ものは危険』

そうだ。

生き物は、たいてい危険な物だし、
そんな生きている物を食べるのは危険かもしれない。

見えないだけで、どんな棘を準備しているのか分かったもんじゃない。

そう言えば、イスラム教で豚を食べてはいけない、と決めたのは、
生で食べると体に危険であるからである、
という説があるのを聞いたことがある。

生活上の知恵を社会に広めることにより
社会のルールと秩序を創り出すのが、宗教の役割と考えると、
この展示会も同じことかもしれない。

賞味期限

その日にちを、昔は見る必要はあったのか?
長らく求められてきたその情報が、
科学の発展により、数値化され、見える化することが実現できた?

違うんじゃないかな?

その期限を肉体で感知する力はあったんじゃないかな?

第一、賞味期限は昔よりも伸びているはずだし、
現代では、健康へのリスクも減少しているのではないか?

ところで、その異常に延びた賞味期限を成立させた原因は、はっきりと見えず、また感じることは難しい気がする。

よく分からないが、これが宗教と科学の闘争であり、
今は、科学と人間の調和を図る科学であるレギュラトリーサイエンスと言われている物の役目なのかな?

何のまとまりもないが、
この展示会は、ある社会の縮図を示しているように感じた。

また、自分が今の世界の成り立ちや、今、どこに進もうとしているのか、
全然分かっていないことが、よく分かった。

平和

日曜日, 8月 16th, 2015
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《どんな火もいやです山はみどり好き》

面倒な事になる前に
どんな小さな異変も、残らず叩き潰しましょう。

それは、緑が好きな山のため。

今も昔も、物の言い方は変わりませんね。

唐辛子

日曜日, 8月 16th, 2015
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外から伝わってきた辛子は
薬としても利用されるようである。