Archive for the ‘散歩’ Category

2013年12月上旬 東京

火曜日, 12月 31st, 2013

1ヶ月ほどの長期出張から東京に戻る。

出張先では朝、バスに乗り、夜、タクシーでホテルに戻る毎日。

捕まえる暇もなくこの秋は過ぎ去ってしまった。

まだ玉川上水の木はきれいよ、

と言われて暗くなり始めた空の下、言い訳を探しに外に出た。

12月7日

 

12月14日

先週は家を出た時間がすでに遅かった割には

寄り道をしたためほとんど何も見ずに終わってしまった。

その翌日の日曜日は何かしら用事があったのか、

ただ起きるのが面倒であったのか。

 

その日は友達と吉祥寺で待ち合わせ。

 

何か後悔やらを恐れるのであれば、

まともな時間に起きて外に出る準備をすればよいのだろうが、

洗濯やら何をどのように物事をこなしたのかは定かではないが、

気がついたらすでに暗くなり、約束の吉祥寺へとバスで向かった。

 

そして、その帰り。

突き出たおなかをなだめるために井の頭公園を歩き帰宅の徒についた。

 

 

12月15日

やっぱり遅くなってしまったけど、

陽の当たる光景を見ようと外へ出たけど。

 

陽の当たらない場所から光を探した。

2013_10_27 竹原

日曜日, 12月 29th, 2013

仕事で広島に行く。

朝から仕事は始まる。

前日の何時に出発しようがそれは自由であろう。

 

 

いつもより数時間前に起床し、新幹線で東京を出発した。

 

 

どこに行こうか?

 

 

人の集まる賑やかな場所が好きなわけではないが、

まずは出張のための荷物やらをホテルに置きに行くのが無難であるだろうし時間は限られている。

携帯電話で「広島、祭」という言葉でインターネットを検索すると

広島県にある竹原という町で、

「たけはら憧憬の路」と名づけられた夜の町を華麗にライトアップする祭が催されるようであった。

 

ライトアップに引かれて人が集まることに理解はできても引かれることはなかったが、

何もいいアイディアのなかった僕は、

「安芸の小京都 きてみんさい竹原」

という竹原市観光協会の宣伝文句に騙された振りをして行ってみようかと目的地を決めた。

 


大きな地図で見る

 

 

—————————–

竹原市観光協会公式サイトの「町並み竹灯り ‐たけはら憧憬の路‐」紹介ページ

http://www.takeharakankou.jp/event/autumn/dokei.php
http://www.takeharakankou.jp/event/shoukei/

 

2013_11_10 広島

日曜日, 12月 1st, 2013

広島に1ヶ月。
ふらつく時間もなく、一度夜更けに川沿いを重い足を無理に前へ前へと進めただけで終わってしまった。
また訪れる機会があればと思うが、見ずに過ぎ去った秋を追いかけることはもうできないのであろう。

10月下旬から1ヶ月ほど広島にいました。
行く前はいろんなところを見てみようと思ってはいたものの、
今回は広島に到着したその日に訪れた竹原という町の憧憬の路(http://www.takeharakankou.jp/event/shoukei/)という催しを見ただけで、
後はホテルと職場の行き帰りで終わってしまいました。
休日のホテルを確保するのは苦労しました。
取り敢えずはどんなに高くてもどこかのホテルを予約しておいて、
許されるであろう価格の部屋が現れるのを1日何度もネットで確認して待つ毎日でした。
この時期の広島は人気があるのでしょうか。
竹原駅に向かう車窓から見た瀬戸内海。どこかの駅でふらりと降りて歩いてみよう。
頭の中にははっきりと浮かんでいた光景は、夢となり過ぎ去ってしまいました。

20131110_01

20131110_02

2013_10_06 秋祭り、井の頭公園

月曜日, 10月 7th, 2013

2013_07_21 深大寺の鬼燈(ほおずき)祭り、表参道

火曜日, 7月 23rd, 2013
通勤のバスの広告で、

「深大寺の鬼燈(ほおずき)祭り」
があった。
聞いたことのないお祭であったが、
近年、始まった町を盛り上げる人との試みのようである。
浅草で行われるこのお祭が有名であるが、
いつものごとく、これが何であるのかよく分からないので、
調べてみる。
辞書のように簡単に記述しておくとするのであれば、
次のようなお祭であるらしい。
「7月10日に参拝すると、それは四万六千日参拝したことと同様の功徳となる」
そんなわけで人が集まり、そこで儲けようと人が集まったのであろうか。
そして、薬草として評判であった「ほおずき」を売る市が浅草寺に立つようになったそうである。
深大寺は7月19日(金)~21日(日)の3日間開催されていた。
違う日にちでの祭となり、
浅草のものとはまた違う意味合いがあるのかもしれないし、
同じ日の開催ではとても太刀打ちができないと思ったのかもしれない。
ともかく、深大寺に行くと、
鬼燈(ほおずき)祭りは比較的こじんまりとした印象を持ったが、
屋台がならび、またスタンプラリーとして地蔵などの前にはスタンプが置かれたりと、
賑やかな場所となっていた。
その後知り合いの展覧会を訪問しようと表参道に向かった。
展示会の風景
都心は電車の行き来をすることはあっても、
普段は街をぶらぶらとすることはない。
展示会場を出ると、
もう暗くなり始めていたため、今回も散策したわけではないが、
表参道駅前の神社にだけ入ってみた。
周りの光景とは整理のされていない別に古ぼけた場所であったが、
中年に差し掛かった女性が早足で参道を進み、
祈りを捧げると、また急ぐように去っていった。
何か仕事へと向かっていくような緊迫感を感じ、
その祈りの場所はその華やいだ都心に溶け込んでいるようであった。
帰りに選挙投票所に寄ったため、
いつもとは異なる帰宅路を歩いた。
そこにはポツリと電話ボックスがあった。
近年、ほとんど路上の電話を見ることがなくなったが、
そこは車椅子用で少し大きめな形状であった。
たまには部屋を離れそこで一人座り電話する人の姿を想像した。

2013_07_14 「杉並区 史跡 散歩 地図」 Gコース 阿佐ヶ谷界隈

水曜日, 7月 17th, 2013
昨日訪れた尾崎熊野神社にもう一度行きたいと思った。
曇り気味であり、その場にいた狐をもう少し明るい陽の下で会いたいと思ったからである。
この三連休の中日、それだけで終わってはと、
「杉並区 史跡 散歩 地図」を見る。
寄り道することを考えると長距離歩行は無理であろう。
興味を引かれた場所はあったが、
7キロほどと本日だけで全てを回りきるのは難しいであろう。
すぎ丸の終着地である阿佐ヶ谷。
その阿佐ヶ谷にもコースがあり、また3.8kmと手ごろな幅である。
目的地を決めて、ドアを開ける。
結局は今日も曇り空であるようであった。
リュックの中は、
昨日は持ち出した折り畳み傘は戸棚へとしまったようであり、
空っぽであった。
携帯電話で天気予報を見ると、降水確率30%
これであれば大丈夫、とそのまま締めた鍵を開けずにバス停へと向かった。
昨日と同じようにバスで久我山駅に行き、
そこから電車ですぎ丸の発着地である浜田山に向かった。
尾崎熊野神社の参道には一台の自転車も止まっていなかった。
単に何か側にある商店なりの都合だけかもしれないが、
やはり日曜日は休みの日であり、
行楽地はまた別なのであろうが、
住宅街の店は閉まるし人の動きはなくなるもんだと、
一人後から入ってきた人が座ったにしろ、
土曜日の昨日よりも何故だかそこのベンチは寂しく見えた。
そして、すぐに本日の目的地である阿佐ヶ谷へと向かった。
個人的には杉並区役所があったり阿佐ヶ谷JAZZ Street等イベントがあれば訪れたりと、
近年は阿佐ヶ谷は馴染みのある町であると思っていた。
ただし、そうは言っても
地図に書かれている杉並区教育委員会推奨の地にはどこも訪れたことがなく、
細かく書かれていない地図を見て目的地へと向かったつもりでも、
どうにもたどり着くことができずに、
終いには携帯電話の地図を頼りに始めの土地であり、
田んぼが広がっていた時代には農耕の神が祀られていたという馬橋稲荷神社へと足を踏み入れた。
結局は阿佐ヶ谷は何も知らなかったわけである。
決まったルートを歩いていただけであったので当然と言えば当然の帰結ではあるのだが、
大きな神社があるとは想像したことがなかった。
今まで何も見てきていなかったことを悔やむ気持ちもありつつ、
すでに時間は限られており、地図に書かれている先へと進むべく、
駅の方面へと道を翻し戻っていった。
駅に程近いところで頭に、ポツリと何かが触れたのを感じた。
「鳥の糞ではなかろうか?」
と頭に手を当てる。
ポツリポツリと雨が振り出したようである。
目の前は舗装されていない小道であり
地図によると欅屋敷と呼ばれる屋敷があった。
都合が良いことに、
その敷地内から頭を飛び出している樹木の下の土は湿ってはいるようではなく、
しばらくの間、その下へと潜り込んだ。
かなりの豪雨である。
木の陰ではしばらく優雅に外を眺めている余裕があったが、
数十分は経過したのであろうか、徐々に上から水がポトリポトリと垂れてくるようになり、
前の建物の屋根の下へと移動した。
雷の音がゴロゴロと鳴り響いていたものの、
どうにもこうにも事を済ませないというか、だらだらと時間が過ぎていく。
もう5時に近い時間となっていた。
地図を見ると、距離的にはまだ半分ほど残っている。
雷が地上へと落ちると同時に雨が止むわけではないであろうが、
何かもったいぶっているようで焦りを感じてきた。
そんなことを考えているうちに、
一人の人が先を通り過ぎ、
そして目の前にある土面に出来ていた水溜りの面積が徐々に小さくなっているのに気がついた。
ずっと木を眺めていたため、雨が止んだことにしばらく気がつかなかったのかもしれない。
木の下では雨が降り始めるのも遅いが、振り終わるのも遅いのかもしれない。
次の目的地である阿佐ヶ谷神明宮に向かう。
天照大御神を祀るその神社は、とても綺麗に整備されていた。
結婚式がよく催す場所となっているのであろうか、
挙式プランの案内の冊子があり、また参拝の栞を読むと次のような紹介文が書かれていた。
「約三千坪の境内には、巨木も多く、都内最大級の伊勢神宮勧請の御社であります。
 一方JR阿佐ヶ谷駅から徒歩二分の交通至便の地にあるため、年間を通し数十万の参拝者で賑わいます。
 また近年は、能を始め骨董市、植木市、伝統芸能の奉納、あるいはバリ舞踊際や杉並区主催のジャズストリートの会場になるなど、地域のコミュニケーションの場として広く親しまれております。」
神社や寺院等にある紹介文は、
説明するものでありながら、僕には難解なことがほとんどあり、
辞書なしには読みこなせないことがほとんどである。
それは僕が無知であるためであり、
他の人々は「うんうん、そうだね、よく分かる」と即時に理解しているのかもしれない。
いずれにしても、
このような大きな施設を訪問したときに、よくあからさまに感じることは、
共同体の中である種の存在感を継続して保っているか、
もしくは保とうとしていることである。
次の目的地の世尊院に向かう。
先へと焦っていたためであろうか、
神明宮を出てすぐ目の前にあるはずものところを横へと残して通り過ぎてしまうと、
また、雨が降ってきたため、商店の前に隠れることにした。
雨が止むともう五時半になっていた。
いつもそうなのか時間切れであったのかは分からないが、
世尊院は閉じていた。
駅前にあるこのお寺には気持ちさえあれば、
また縁があると先へと進む。
次の目的地である法仙庵。
壁の向こうには墓地があるのが見えたが、
一般には公開されていないようであった。
おそらく見学させて下さいと断れば見せてもらえることと思うが、
昨日の神社と寺が一緒になり近所に人々行き交う敷地を思い出し、
ここは僕の場所ではないと駅前から少し離れた地図に書かれた最後の2つの場所、
「お伊勢の森」と「阿佐ヶ谷北五丁目四十二番所在民間信仰石造物」へと向かった。
地図によると大通り沿いの「お伊勢の森」バス停そばで、かつ中学校の側にあるはずの「お伊勢の森」。
確かに間違いなく辿りついたはずであった。
そうは言っても、だいたい「お伊勢の森」といっても、
それが何であるのかさっぱり分かっていなかった。
結局何を見ろ、という主張であるのかは分からないが、
日も暮れて足も痛く探す気力がなかったので、最終目的地である「民間信仰石塔」へと進むことにする。
そして先へと歩み始めると次の看板がかかっていた。
================
お伊勢の森
区立杉森中学校からお伊勢の森児童遊園にかけての一帯です。
阿佐ヶ谷北1-25にある阿佐ヶ谷天祖神社の旧社地です。
・・・
また、その後、建久年間(1190~1198)
この土地に住んでいた横井兵部という人が
伊勢神宮に参拝に出かけ、勢州(今の三重県)能保野に泊まった夜、
大神宮のお告げがあり伊勢の宮川から持ち帰った霊石を、
社に安置して御神体にしたとも書かれています。
祭神が「天照大御神」で伊勢神宮と同じところから、
土地の人は旧社地を「元伊勢」と、呼んでいました。
その後も、「お伊勢の森」といって親しまれています。
また、近くにあった電信隊の兵士が、ラッパの練習にきていたりしたので、
「ラッパの森」ともいわれていました。
・・・
今では貴重な存在となった特別天然記念物の「トキ」がすむほどに、
静かな森であったようです。
================
そんな場所であるから、木を切ることにいまさらながらに遠慮しているのであろうか?
いや、おそらく人に見られると誰もが遠慮がちになっているだけなのであろう。
ところで、この文を読んで、歴史を読み解くことの難しさを感じる。
この短文を持って理解しようとするのが間違っていると言えばよいのか。
土地の人が元伊勢、お伊勢の森、ラッパの森と呼んだ時間は身近な時間軸であると、
文面から想像したが、もしそれが正しいのであれば、
その時代にそこから離れた建久年間の歴史を掘り起こしたように思えたがいかがであろうか。
だからどうだ、というわけではないが、
やはり近代の出来事の方がその姿が想像しやすいのも確かであるし、
またその時代に構築された景色、強く残された人の言葉の中に生きているのかもしれないと思った。

2013_07_13 「杉並区 史跡 散歩 地図」 Dコース 成宗・田端両村界隈

火曜日, 7月 16th, 2013
「歩きながら元気と文化が生まれる町。すぎなみ」

以前、妻がどこからか持ってきた地図がこれだ。
「いいね、行ってみようか」
と言いながら時は流れ、一人になり、また暑い季節になった。
クーラーのある部屋を離れる意義というか論理を見出せないでいたが、
地図を開いてみる。
何を仕出かそうと企んでいるのかはしらないが、
その地図には杉並区で歩くべき道がルートとして14筋ほど設定されており、
人々がそこを歩むと、杉並区の教育委員会は、
「すぎなみの魅力を再発見していただくと共に、
 健康な生活が続けられるkとおを願っています」
ということである。
記憶にはないが、
「Dコース」成宗・田端両村界隈が
オレンジ色のマーカーで記しづけられている。
人に敷かれた線に乗って歩むことに不愉快な想いがあるが、
かといって別に自分で何かを探すつもりもなかった。
「すぎなみ」と漢字ではなく、平仮名で表記する意義について考えながら、
地図に書かれている「Dコース」の出発地に程近い「善福寺川緑地公園前」までの経路を
Googleで調べて出発した。
井の頭線浜田山駅から、
浜田山行きのバス-けやき路線「すぎ丸」-に乗り出発した。
「すぎ丸」というのは数年前にできた路線で、
井の頭線と中央線の駅を南北に結ぶ3つのほどあるバス路線である。
経営状態は知らないが、
鉄道の通わない南北の通路を結ぶ路線として活躍しているのかもしれない。
住宅街の狭い道をバスとは思えない軽快さで右へ左へと舵を切りながら先へと進んでいく。
Googleで調べた所用時間を考えるとこのバス路線上に目的地はあると判断していた。
浜田山から随分と北へ進んだはずだが、
「善福寺川緑地公園前」
というバス停は現れる様子がない。
「善福寺川緑地」と少し何か足りないような気がしたが、
これ以上先に進んでしまってはいけないような気がしたので、
ボタンを押してバスに止まるようにお願いして外に出ることにした。
「杉並区 史跡 散歩 地図」を見ると、
だいぶ北に来てしまったようである。
地図の示す「善福寺川緑地公園前」というのはだいぶ離れた場所にあるようである。
その地図に示すルートに従うことにどれだけに意味があるのかは分からないし、
それに従うことは不愉快であった。
海外旅行では、
「地球の歩き方」という人を舐めた本に憤りを感じつつも、
結局はそんな類の本を持ち歩いていたわけであるが、
「杉並区 史跡 散歩 地図」によると、
出発地点の近くに見所があるようで、
後悔するかもしれないと、結局は出発地点へと向かった。
地図の出発地点には、少しばかり長ったらしい名前があり
「成田東三丁目所在民間信仰石造物」
と名づけられているそうである。
わざわざ形式ばった名称が必要かどうかはさておき、
このように布を被せてやらないと無くなっていくものが世の中の大多数なのであろう。
また、バスを降りたところまで同じ道を戻ってくることを想定すると、
何だか癪に障ったが、ともかく地図にある再び善福寺川と交わる地点までたどり着き、
尾崎橋を渡り左に折れて進むと、その石造物前に到着した。
この杉並区史跡散歩のために認定された場所なのであろう、
杉並区教育委員会の準備したと思しき説明版がある。
====
民間信仰石塔
「ここに建立されている石造は、向かって右から元禄十一年(169x)・・・・の地蔵塔、宝暦十年(1960)十月吉日銘」の馬頭観音塔、宝暦三年(1953)十月吉日銘の地蔵塔です。
これらの石塔は、何れも「念仏講中」「念仏講中拾六人」等と記され、ここ武州多摩郡成宗村白幡の人々が、現世での幸福と来世の往生極楽を願い、講を組織し、建立したものであることが分かります。
(略)
これら石塔を建立した白幡念仏講中も、昭和十五年頃までは、毎月この場に集い、念仏供養を行っていましたが、現在では毎年十月十五日に供養会を盛大に行っています。
昭和六十二年三月 杉並区教育委員会
====
良くは分からないが、このような説明を読むと、
地蔵も庚申塔も結局は同じものに見えてしまうが間違いであろうか?
自分の立つ位置を現実のものと定義するために世界を作り、
そこでそうは言ってもやっぱり無を恐れてなのか現実だから怖いのかは分からないが、
現世と来世の幸せを願い、そして人が集い語り合う。
そこを離れ次の場所、曹洞宗宝昌寺へ足を踏み入れる。
日本において仏教と神道の境が混沌としている部分があるのはよく見受けられるが、
ここは奥を見ると、豊川稲荷の旗がはためいており、同じ敷地内に神社と寺院があるようであった。
奥の神社側にも入り口があるのか、
子供達がこちらに向かって寺院の家屋のベルを鳴らし友達に会いに来る。
ともかくそこは町にある友達の家であり、
その家への訪問者であったのかもしれないが交通路でもあるようで、
明らかに参拝、お墓参りに来た人ではない人が、たまに私の前を通り過ぎていった。
私も人々に倣い、神社を通り過ぎ道に出ると
元は地域の境であったという三年坂を昇り次の目的地である尾崎熊野神社へと向かった。
境内への参堂は自転車置き場となっており、
用事を終えた親子が自転車に乗りそこを去り、
一方中に入ると、二名の男女がタオルを水に浸し汚れた体を清め、
そしてベンチに座り休んでいた。
地図のその先を見ると、目的地はどこも神社か寺院であり、
どこもよく見ることでは、無視された場所に見えたりするが、
ふと、あるが祈る人が現れ、またイベントの案内が掲げられている。
誰かが残そうと思ったので残ったのかもしれないが、
どこにでもある見慣れた空間であり人が集う場所として残りながら、
何故だか一つ間には川が敷かれた空間にも見え、
どこも同じ光景でありながら、どこも同じように新鮮に写った。

2013年07月07日/七夕

日曜日, 7月 7th, 2013

午後三時ごろであろうか。

 

少々身体の調子が悪かったこともあり、 家とスーパーの行き来だけで土日が過ぎ去ろうとしていた。

 

「今日は七夕らしいけど、一日部屋で完了していいのかな?」

 

自分にしては、この土日は最低限必要でやらざるを得ない洗濯機のボタンを押して、しばらくしたらその機械の中から服を取り出して棒に引っ掛ける作業だけでなく、 浴室の防カビ剤を購入して使用したので、自分としては家事が好成績で完了したような気がする。 これを以って合格としようか。今まで、七夕で何かしたことも、考えたこともないし。

 

さて、妻が実家に帰っているので、 来週の食事はどうしようかと考えてみる。

野菜が足りないことに気がつき、どうやら外に出てスーパーに行くのが無難であるようである。

 

 

もう、夕方であった。

スーパーは暗くても問題ない。 僕には七夕と神社の関連性の有無は知らなかったが、 とりあえず近所の神社に向かった。

 

 

 

 

神社の境内にある七夕の説明冊子を見る。

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夏の行事を楽しもう! 七夕(たなばた) 7月7日

七夕は食物の成長を感謝する収穫祭と、 お盆に棚機女(たなばため)と呼ばれる娘が御霊の 衣服を織り棚に備え、村の穢れを祓う という二つの行事に由来しています。 この二つに、大陸から伝わった 織姫(織女星(しょくじょせい))彦星(牽牛星(げんぎゅうせい))が 一年に一度だけ天の川を渡って会えることが 許されるという「星まつり」と、 織物上手だった織女星にあやかり裁縫の上達を 願う行事「乞巧奠(きこうでん)」が合わさって、 現在のようなかたちになりました。

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この説明は、僕には正直理解できないことが多くありインターネットで調べてみたが、 依然としてさっぱり分からないため、今後の宿題としてみたいと思う。

 

それで終わってもいいのだが、とりあえず、今回は今日の段階で一つだけ感じたことを述べておきたいと思う。

 

 

「ウェキペディア フリー百科事典」で七夕について見てみると、 短冊に願いを飾る風習の起源について、次のように記述されている。

 

「夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもの」

(ウェキペディア フリー百科事典 七夕より)

 

 

インターネット上でほんの少しだけ検索して程度では、 夏越の大祓(おおはらえ)と七夕を関連づける根拠等は他には見つからなかった。

 

そこで、関連付けるのは止めて、基本的に僕が理解していない大祓に着目してみる。

正確にはどのように定義すればよいのか分からないので、 結論だけ簡単に言えば、 大祓とは誰もが時の経過と共に蓄積されていく汚れを祓う行事であり、 そこで身を清らかなものとするために茅の輪くぐりを行うそうである。

 

また、ここでは、ある神社の大祓の説明を紹介しておきたいと思う。

「夏越の大祓」「七夕」という二つの単語でGoogle検索すると、 始めに出てくるのがこの神社、遠野郷八幡宮であるが、 そこにはこんな説明が記述されている。

 

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夏越大祓はこれから始まる暑い夏を無事に乗り切れる様、祈る行事です。 本殿前に設置された茅の輪を「みなづきの 夏越の祓 する人は 千歳の命延ぶというなり」「蘇民将来」と唱えながら3周します。 罪穢を祓う人形流しも行われます。茅の輪と人形は6月中旬に設置され、毎年、6月30日の夕刻には大祓詞奏上が行われます。

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この文章を読んで、始めは安易な説明と感じてしまった。

 

ただ、少し考えると、 この行事について何も知らないので想像しただけに過ぎないが、 この説明は難解な言葉の定義よりも適切な内容であるかもしれないと思った。

難しい言葉を利用せずに説明すれば、 まさに「これから始まる暑い夏を無事に乗り切れる様、祈る」行事なのであろう。

おそらく、これは人の生活から産み出される様々な他の行事と全く同じなのではないだろうか?

 

実りを待つ人、 豊作を願い、この夏が無事に乗り切れることを願う。

そして人には軽く飛ばされてしまうような願いがいくつもある。 全てをひっくるめて、何卒上手くいきますようにお願いしよう。

 

 

ところで短冊の願いを見て少しばかり驚いたことがある。

 

自分自身や家族に向けての願いと共に、世界の平和・安全の願いがいくつも見られたからである。

もしかしたら自分が七夕を無視して、短冊を見ていなかったので知らなかっただけのことであり、 昔から、人の願いとしてこれは変わらないのかもしれない。

経済的には世界は統合され、否応なしに生存のための一つの共同体であっても、 心は離れたまま、というのが現実であると思う。 でもそれは僕の定規で測った勝手な見方であり、 他の人たちは少しずつでもお互いに近づいていっているのかもしれないと思った。

 

人を思い、自分の意思では初めて願いを結びつけてみたが、 やはり、自分は外へと自然と発散される自分以外の人への思いが欠落しており、 自分以外の優しさを前に、人を自分の定規で定義する自分の傲慢さを恥ずかしく思った。

 

災いとの付き合い方

日曜日, 6月 23rd, 2013

 

 

 決まりや規則に則れば全ては落ち着く方向へと収束することであろう、
と捕まるための棒を水の底へと打ち付けようとしたのかもしれない。
すぐに揺らいでしまう頼りないものではあるが。

人生には、多くの災いが起こる危険性が高くなる期間が何度かあるそうだ。
その期間は年齢と定義された数値で示すことができ、それを厄年と呼ぶそうである。

また、その年を本厄とも呼ぶそうで、
その前後一年をそれぞれ前厄、後厄と名付けた。
やはり危ないのかもしれないと言う一年となるそうである。

人の生活の便宜上作られ、利用される時の流れの区画の呼び方に従い災いが現れ、
その枠が過ぎ去ると危機は脱するという非論理性を打ち消すために、

この曖昧な時間を設けたのであろうか。

 さて、どうしてこの期間なのであろうか。

災いと言うのは人によりもたらされるものもあるし、

また定義の仕方により発現することもあるかもしれない。
往々にして人が思った通りにしか事態は動かないし、  みんながその期間が危ないと思えば、その通り実現されても可笑しくはないと考えると、
世間でよく聞く人生指南の言動にも聞こえてくる。

また少し横路に逸れるが、太平洋を上から見下ろす位置にある白須賀宿という宿場を訪ねたことがある。

 そこで宿場説明の立て看板を見ると、
その町は津波の難を恐れ、高台へと宿替えしたが、今度は大風による大火に苦しむようになったようである。
 この場合は、人の所作により自然災害が引き起こされた、というわけではないだろうが、
人の選んだ道に従い、いずれにしろその場では、何かしらの災いは発生してしまい、
それとどのように付き合うのか考えていくことになるのであろう。

さて、前置きが本文を食わんとする長さとなったが、

これ以上の不愉快を避けるために後は簡単にまとめることにしたい。

僕は早生まれであるが、

同級生は前厄の歳であり、厄払いに行く必要があるそうである。
 その彼も、もともとは僕と同じように厄年という風習に興味はなかったのかもしれないが、
他の同級生より厄払いに行ったという情報を聞きつけると即座に厄払いを行う決断をして、
隣に座る僕には、「お前にはまだ早いけど取り敢えず見ておけ」、と僕に同行するようにと駆り立てた。

厄年、厄除けとは何かという常識が私にはないため、
神社に行ってお祓いでもしてもらうのかと思っていたが、それは間違いであった。

僕に動向を促す友達も知らなかったのかもしれないが、
厄払いを行った情報提供元の友達と同じ場所、高幡不動尊金剛寺へと行くことになっていた。

ところで、今回は、話の流れで行く場所が落ち着いたが、
想像するには、おそらく、厄払いを行うと宣言するところへ、それを信じてもよいと人が思えば、
厄除けのできる場所という合意事項がなされ、その儀式が遂行されるのであろう。

高幡不動尊では、

「仏の智慧の火を以て煩悩(苦の根元)を焼きつくす」(高幡不動尊金剛寺ウェブサイトより)
という護摩修行が毎日営まれている。
 その儀式では、「家内安全・商売繁昌・身体安全・厄災除・災難消除・当病平癒・手術成就・負傷平癒・心願成就・社運隆昌・事業繁栄・工事安全・作業安全・交通安全・旅行安全・安産満足・六三除・方災消除・身上安全・無病息災・合格成就・就職成就・学業成就・開運満足・新生児祈願・ 御礼等」、並びに希望に応じたその他お願いごとの成就を祈願してくれるそうである。

敷地内は見事な庭園などもあり、
また今は「あじさいまつり」が開催されており観光客であろうか多くの人が集まり、
出店屋台が並んでいる落ち着いてはいるが、少しばかり賑やかな場所であった。

「御護魔の時間です、お集まり下さい」

 放送が境内に流される。

御堂の中に人が集まる。
護魔料を捧げる人のため、儀式が執り行われるのであろうが、
一般の人が同席してもよいようであり、
友達の手に誘われるがまま、靴を脱いで御堂へと足を踏み入れた。

音楽のように心へと響く祈りの声と決められた締めタイミングで流される楽器の音の中。
そして、祈りをささげながら、煩悩に見立てた薪を焼き尽くし灰にしていく。

こんな目の前に展開されている儀式の有様が、
ここに静かに座る人々の現実や思いとどれだけ合理的に重なり合っているのであろうか僕には想像ができなかった。

昔、ある本で次のようなことを読んだことがある。

「プロスポーツ選手は、縁起を担ぐことが多い。
最高レベルが集結した中で、群を抜くにはあとは論理を超えた取り組みしか手がない」

そのときは、そうかもしれないと納得したが、
実際は、現実の生活でも同じことであり、どのレベルにいるかという差別はなく、
誰もが同じように解決できない世界の中、ただ「どうしようか、どうにもならないよね」、と立ち尽くすだけの瞬間があるのかもしれない。

 ところで、護摩というのは、「焚く」、「焼く」を意味するサンスクリット語(ホーマ:homa)を漢字表記したもので、

この儀式自体は、紀元前のインドバラモン教の儀式が起源であるそうである。

今、この場に静かに座り儀式を眺め、時に手を合わせる人々の心中は分からないが、
いずれにしろ、長い歴史で消えることなく、
世界の有様を定義する宗教と風習の混ざり合ったこの儀式が、

今も人々に必要とされ、執り行われているわけである。

ただ、同じことが同じように伝承され、また横へと繋がっていくわけではないのであろう。

それを説教と言えばよいのか、僕には言葉の定義を知らないが、

ともかく、護魔の前後に、御堂に集まる人々を前に、お坊さんは誰もが分かる言葉を使い説教をした。
そして、その言葉をほしい方がいればどうぞ、と紙が配られる。
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 よいたねをまこう
 (1)相田みつを先生の詩
     たね
   種子さえ
   蒔いておけば
   いつかかならず
   芽が出る
   よいためには
   よい芽が
   悪い種子には
   悪い芽が
   忘れたころにちゃんと
   出てくる
(2)荒了寛老師のお言葉
   子の悪しきは
   親の悪しきなり
   生まれながらにして
   悪しき子はいない
   育てたように
   子は育つ
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 正しいのかどうかは知らないが、
その現実とは遊離したかのように見えるその空間に集まり、
いかにもありがたいもののごとくその紙を受け取る人々もおり、
一方、興味を示さないものの、いずれにしろこの場所で厄除けをお願いする人もいる。
寺院には、宗教的な部分と土着な道徳観を広める役目があったのかのように見えた。
昔には共同体をまとめる一つの役目を担っていたのかもしれないし、
信心がなく、またありがたい言葉を理解しようとしない僕を含めて人のあるべき道を説こうとしている姿が
昔から引き継がれる形で、今も変わらず残っているかのように見えた。
滞在日:2013年6月15日

2013年3月14日 雨上がりの遠足

金曜日, 3月 15th, 2013
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昼のお弁当。
建物を出て少し先へと進むと公園が見えた。
芝公園。
梅林の前に佇む人のいない広場、そしてベンチが見えた。
敷地内へと入る。
ベンチは角は水を含んでいるものの
充分に腰掛ける場所は確保されていた。
残念ながら見頃は過ぎているようであったが、
今日は都会の静かな空間となっていたのか、
優しく空気は流れていた気がした。