と捕まるための棒を水の底へと打ち付けようとしたのかもしれない。
すぐに揺らいでしまう頼りないものではあるが。
人生には、多くの災いが起こる危険性が高くなる期間が何度かあるそうだ。
その期間は年齢と定義された数値で示すことができ、それを厄年と呼ぶそうである。
また、その年を本厄とも呼ぶそうで、
その前後一年をそれぞれ前厄、後厄と名付けた。
やはり危ないのかもしれないと言う一年となるそうである。
人の生活の便宜上作られ、利用される時の流れの区画の呼び方に従い災いが現れ、
その枠が過ぎ去ると危機は脱するという非論理性を打ち消すために、
災いと言うのは人によりもたらされるものもあるし、
また少し横路に逸れるが、太平洋を上から見下ろす位置にある白須賀宿という宿場を訪ねたことがある。
人の選んだ道に従い、いずれにしろその場では、何かしらの災いは発生してしまい、
それとどのように付き合うのか考えていくことになるのであろう。
さて、前置きが本文を食わんとする長さとなったが、
僕は早生まれであるが、
他の同級生より厄払いに行ったという情報を聞きつけると即座に厄払いを行う決断をして、
隣に座る僕には、「お前にはまだ早いけど取り敢えず見ておけ」、と僕に同行するようにと駆り立てた。
厄年、厄除けとは何かという常識が私にはないため、
神社に行ってお祓いでもしてもらうのかと思っていたが、それは間違いであった。
ところで、今回は、話の流れで行く場所が落ち着いたが、
想像するには、おそらく、厄払いを行うと宣言するところへ、それを信じてもよいと人が思えば、
厄除けのできる場所という合意事項がなされ、その儀式が遂行されるのであろう。
高幡不動尊では、
敷地内は見事な庭園などもあり、
また今は「あじさいまつり」が開催されており観光客であろうか多くの人が集まり、
出店屋台が並んでいる落ち着いてはいるが、少しばかり賑やかな場所であった。
「御護魔の時間です、お集まり下さい」
御堂の中に人が集まる。
護魔料を捧げる人のため、儀式が執り行われるのであろうが、
一般の人が同席してもよいようであり、
友達の手に誘われるがまま、靴を脱いで御堂へと足を踏み入れた。
音楽のように心へと響く祈りの声と決められた締めタイミングで流される楽器の音の中。
そして、祈りをささげながら、煩悩に見立てた薪を焼き尽くし灰にしていく。
昔、ある本で次のようなことを読んだことがある。
「プロスポーツ選手は、縁起を担ぐことが多い。
最高レベルが集結した中で、群を抜くにはあとは論理を超えた取り組みしか手がない」
そのときは、そうかもしれないと納得したが、
実際は、現実の生活でも同じことであり、どのレベルにいるかという差別はなく、
誰もが同じように解決できない世界の中、ただ「どうしようか、どうにもならないよね」、と立ち尽くすだけの瞬間があるのかもしれない。
この儀式自体は、紀元前のインドバラモン教の儀式が起源であるそうである。
今、この場に静かに座り儀式を眺め、時に手を合わせる人々の心中は分からないが、
いずれにしろ、長い歴史で消えることなく、
世界の有様を定義する宗教と風習の混ざり合ったこの儀式が、
ただ、同じことが同じように伝承され、また横へと繋がっていくわけではないのであろう。
それを説教と言えばよいのか、僕には言葉の定義を知らないが、