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災いとの付き合い方

日曜日, 6月 23rd, 2013

 

 

 決まりや規則に則れば全ては落ち着く方向へと収束することであろう、
と捕まるための棒を水の底へと打ち付けようとしたのかもしれない。
すぐに揺らいでしまう頼りないものではあるが。

人生には、多くの災いが起こる危険性が高くなる期間が何度かあるそうだ。
その期間は年齢と定義された数値で示すことができ、それを厄年と呼ぶそうである。

また、その年を本厄とも呼ぶそうで、
その前後一年をそれぞれ前厄、後厄と名付けた。
やはり危ないのかもしれないと言う一年となるそうである。

人の生活の便宜上作られ、利用される時の流れの区画の呼び方に従い災いが現れ、
その枠が過ぎ去ると危機は脱するという非論理性を打ち消すために、

この曖昧な時間を設けたのであろうか。

 さて、どうしてこの期間なのであろうか。

災いと言うのは人によりもたらされるものもあるし、

また定義の仕方により発現することもあるかもしれない。
往々にして人が思った通りにしか事態は動かないし、  みんながその期間が危ないと思えば、その通り実現されても可笑しくはないと考えると、
世間でよく聞く人生指南の言動にも聞こえてくる。

また少し横路に逸れるが、太平洋を上から見下ろす位置にある白須賀宿という宿場を訪ねたことがある。

 そこで宿場説明の立て看板を見ると、
その町は津波の難を恐れ、高台へと宿替えしたが、今度は大風による大火に苦しむようになったようである。
 この場合は、人の所作により自然災害が引き起こされた、というわけではないだろうが、
人の選んだ道に従い、いずれにしろその場では、何かしらの災いは発生してしまい、
それとどのように付き合うのか考えていくことになるのであろう。

さて、前置きが本文を食わんとする長さとなったが、

これ以上の不愉快を避けるために後は簡単にまとめることにしたい。

僕は早生まれであるが、

同級生は前厄の歳であり、厄払いに行く必要があるそうである。
 その彼も、もともとは僕と同じように厄年という風習に興味はなかったのかもしれないが、
他の同級生より厄払いに行ったという情報を聞きつけると即座に厄払いを行う決断をして、
隣に座る僕には、「お前にはまだ早いけど取り敢えず見ておけ」、と僕に同行するようにと駆り立てた。

厄年、厄除けとは何かという常識が私にはないため、
神社に行ってお祓いでもしてもらうのかと思っていたが、それは間違いであった。

僕に動向を促す友達も知らなかったのかもしれないが、
厄払いを行った情報提供元の友達と同じ場所、高幡不動尊金剛寺へと行くことになっていた。

ところで、今回は、話の流れで行く場所が落ち着いたが、
想像するには、おそらく、厄払いを行うと宣言するところへ、それを信じてもよいと人が思えば、
厄除けのできる場所という合意事項がなされ、その儀式が遂行されるのであろう。

高幡不動尊では、

「仏の智慧の火を以て煩悩(苦の根元)を焼きつくす」(高幡不動尊金剛寺ウェブサイトより)
という護摩修行が毎日営まれている。
 その儀式では、「家内安全・商売繁昌・身体安全・厄災除・災難消除・当病平癒・手術成就・負傷平癒・心願成就・社運隆昌・事業繁栄・工事安全・作業安全・交通安全・旅行安全・安産満足・六三除・方災消除・身上安全・無病息災・合格成就・就職成就・学業成就・開運満足・新生児祈願・ 御礼等」、並びに希望に応じたその他お願いごとの成就を祈願してくれるそうである。

敷地内は見事な庭園などもあり、
また今は「あじさいまつり」が開催されており観光客であろうか多くの人が集まり、
出店屋台が並んでいる落ち着いてはいるが、少しばかり賑やかな場所であった。

「御護魔の時間です、お集まり下さい」

 放送が境内に流される。

御堂の中に人が集まる。
護魔料を捧げる人のため、儀式が執り行われるのであろうが、
一般の人が同席してもよいようであり、
友達の手に誘われるがまま、靴を脱いで御堂へと足を踏み入れた。

音楽のように心へと響く祈りの声と決められた締めタイミングで流される楽器の音の中。
そして、祈りをささげながら、煩悩に見立てた薪を焼き尽くし灰にしていく。

こんな目の前に展開されている儀式の有様が、
ここに静かに座る人々の現実や思いとどれだけ合理的に重なり合っているのであろうか僕には想像ができなかった。

昔、ある本で次のようなことを読んだことがある。

「プロスポーツ選手は、縁起を担ぐことが多い。
最高レベルが集結した中で、群を抜くにはあとは論理を超えた取り組みしか手がない」

そのときは、そうかもしれないと納得したが、
実際は、現実の生活でも同じことであり、どのレベルにいるかという差別はなく、
誰もが同じように解決できない世界の中、ただ「どうしようか、どうにもならないよね」、と立ち尽くすだけの瞬間があるのかもしれない。

 ところで、護摩というのは、「焚く」、「焼く」を意味するサンスクリット語(ホーマ:homa)を漢字表記したもので、

この儀式自体は、紀元前のインドバラモン教の儀式が起源であるそうである。

今、この場に静かに座り儀式を眺め、時に手を合わせる人々の心中は分からないが、
いずれにしろ、長い歴史で消えることなく、
世界の有様を定義する宗教と風習の混ざり合ったこの儀式が、

今も人々に必要とされ、執り行われているわけである。

ただ、同じことが同じように伝承され、また横へと繋がっていくわけではないのであろう。

それを説教と言えばよいのか、僕には言葉の定義を知らないが、

ともかく、護魔の前後に、御堂に集まる人々を前に、お坊さんは誰もが分かる言葉を使い説教をした。
そして、その言葉をほしい方がいればどうぞ、と紙が配られる。
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 よいたねをまこう
 (1)相田みつを先生の詩
     たね
   種子さえ
   蒔いておけば
   いつかかならず
   芽が出る
   よいためには
   よい芽が
   悪い種子には
   悪い芽が
   忘れたころにちゃんと
   出てくる
(2)荒了寛老師のお言葉
   子の悪しきは
   親の悪しきなり
   生まれながらにして
   悪しき子はいない
   育てたように
   子は育つ
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 正しいのかどうかは知らないが、
その現実とは遊離したかのように見えるその空間に集まり、
いかにもありがたいもののごとくその紙を受け取る人々もおり、
一方、興味を示さないものの、いずれにしろこの場所で厄除けをお願いする人もいる。
寺院には、宗教的な部分と土着な道徳観を広める役目があったのかのように見えた。
昔には共同体をまとめる一つの役目を担っていたのかもしれないし、
信心がなく、またありがたい言葉を理解しようとしない僕を含めて人のあるべき道を説こうとしている姿が
昔から引き継がれる形で、今も変わらず残っているかのように見えた。
滞在日:2013年6月15日