昨夜、外を歩いた。
家とよく行く場所を往復しただけのこと。
明かりに浮かぶ葉の姿を見て、
いつもので足を止める。
深夜零時に近い時間である。
ある人が、
雪の参道を通り手を合わせて、
家へと向かう。
祈り方、想いの表現は人により違う。
この神社のそんな光景はどこにでもあるありふれたものなんでしょう。
数に左右されるような生活はいかがなことかとは思う。
そうかと言ってその数値により構築される世界に同居しているわけである。
その値によって休みであったり、
何かしらの出来事が規定されているわけであり、
無視するわけにはいかないわけである。
休みであることが僕にとっては重要であり、
新年に初詣に行くような経験は僕には遠い彼方の思い出にしかなかった。
珍しく友達から電話があり、
初詣に行こうと言う。
友達に促され、
蕎麦でも有名な深大寺にたどり着いた。
初詣と言えば、神社でのお祈り。
このように僕は独自の論理を築いていたわけではあったが、
どうやらお寺に詣でてもよいみたいであった。
僕の愚かな言い回しはどうでもよく
人はそこに集まっていた。
祈るしかないのか、祈ることもできるのか。
僕にはどちらなのかは分からないが、
願い思い描いていないものが現実として目の前に現れることは
ほとんどないのであろう、
ということは容易に想像できた。
人の合間を抜け出し、実家へと向かった。
二日目。
元旦に「家内安全」のお札を買い、
実家へと持ち込むと、
思いがけずも喜んでもらえた。
プロのスポーツ選手は、「げんを担ぐ」ということを聞く。
ある高い水準に達すると 、
あとは努力とか、論理に基づく向上とかではないのであろう。
その水準かどうかはどうでもよい。
願いたい、叶えたいことはある。
その想いを伝えることが意味があるのかもしれない。
妻の実家に渡そうと、
「家内安全」
の札を買いに出かけた。
三日目。
温泉に行った。
銭湯に行くことと、自宅の風呂場にお湯を入れる決断をすることと
どのような違いがあるのかは説明できないが、
檜原村にある数馬の湯という場所に向かった。
その路上、東京に向かう車の行列、
死ぬ前に会う人は何パーセントであるのか分からないが、
その貴重な人が、
その道に縦列となり集まっていた。
そして、山道を走る誰も乗客のいない路線バスを通り過ぎ
目的地が我らを迎えるために空いているか心配ではあったが、
数多くの車が止まる数馬の湯の駐車場へとたどり着いた。
彼は、神社で燃やさなければいけない札があるという。
檜原村からの帰り道、見つけた神社へと車を降りて進んだ。
その時が過ぎてしまったのか、元々受け付けてはいなかったのかは知らないが、
札を置く場所はないようであった。
まだ、それを返し報告するには、
早かったのかもしれない。
十分満たされてから訪れればよいのかもしれない。
四日目。
時が過ぎるのは早い。
職場の机の上におくカレンダーがない。
予定を刻み自分を縛り付けるその紙を買いに行くことにした。
それを書く必要、主張する必要がどこにあろうのであろうか。
ただし、それを表に出さない限りは何も産まれないことを示すことであろうか。
時間を区切ることにどれだけの意味があるのかは知らないが
そうしないと、ことは進まないし終わることもないのかもしれない。
カメラを持つ僕。
何かステキなことがあるのかもと僕を覗き込む。
別に何かあるわけではない。
いつもあなたが見ている風景がそこに広がっているだけである。
個人的には、美しい姿ではあったりするが。
洗濯もして、部屋は掃除機もかけ
風呂場はモップで磨き、
植物には水もやった。
これで一年を終えることになっても、文句を言われる筋合いはないだろう。
何か忘れたことがあるような気がする。
年賀のお菓子はすでに届いて準備万端ではある。
そんな体裁だけではなく、お酒とか場を和ませる手土産は必要ないのか?
そう言われれば言い返す論理は僕にはない。
その通りである。
地図を見る。
三鷹市牟礼から吉祥寺へは意外と徒歩でも近いようである。
以前、暗闇の中、徒歩で自宅へと歩いたときは、
何度も何度も同じ場所に戻ることになり、
僕にはこの道は何だか合っていない、
と判断していたわけだが、
まあ悪くはない道もありそうであった。
そのようなわけで、
明日、元旦の実家の手土産を買いに
吉祥寺へと向かうことにした。
地図に示された通りの道を進む。
「井の頭公園通り」
何度も目にしたことのある道ではあるが、
その名前を初めて知った。
吉祥寺は井の頭公園のすぐそばにある。
確かに目的地へとは順調にたどり着けそうである。
ある郵便局の前。
書初めなのかよくは知らないが、
小学生が描いたのであろうか、習字で書かれた文字が飾られている。
それぞれの思いも違い、描される言葉も異なる。
無知な僕には分からないことも画いてある。
そういえば、同じ言葉が書かれている紙もあるな。
誰かが飾ることの許されたあるべき姿、許容できる姿を提示したのかもしれない。
鳥居の横を過ぎる。
お地蔵さんという道のあちらこちらに立つ偶像は、
僕にとっては分かりやすい存在であるように勝手に思っているが、
神社という物理的構造物は、
どこにでもある身近な存在でありながら、
僕にとっては謎の多い不可思議な存在である。
無知と言われればそれで終わりなのだが、
どうしても政治的構造物としか理解できない。
そうは言っても、
それが土着のものとして根付いたのであれば、
自分の一部となるのであり、ただ肯定するしかないのかもしれない。
井の頭公園に着いた。
これで、目的地である吉祥寺には、
もう着いたようなものだ。
横に逸れる必要はない、後悔する必要はない。
ただ目的地へと向かい真っ直ぐに進めばよい。
そうと思いながら真っ直ぐではなく、右へと公園の池のあるほうに足を向けていた。
3連休最終日。
とりあえず今日もだらだらするか。
天気もよさそうだし。
いや、それでいいのか?
大阪滞在を荷物、天気などの都合により諦めて帰宅して、
3連休は洗濯もしたし、長らく滞っていたウェブサイトも更新したしOKだね。
でも、こんな風に終わることは期待していないはずだ。
そして、3時前にようやくドアを開けた。
冬の空はステキだ。
空気が澄んでいるためであろうか、
その透き通る色合いが美しく目に映る。
夏であっても、秋であっても、冬であっても
空がきれいだと言っているに違いないのだが。
部屋に目を向けると、建物の影で暗く沈んでいた。
外に出てよかった。
そして、いつもの神社へと向かう。
私が何も知らない生き物であることを、
いつもつくづくと感じさせてくれる。
実は今日外に出た目的は、
自己満足のためだけではない。
埃を被る本を図書館へと帰すことが一つの目的であった。
もう、明るくない時間である。
でもまだ暗いとは言えない。
いつもはバスで通う道を、今日は歩くことにした。
歩道が狭く、恐れ恐れ進むこの道。
いつもであれば、横へと逸れて進むことをするのであろうが、
どれだけ歩けば着くのかは知らないが、
あわよくば明るいうちに帰れればと、今日は、前へ前へと進んだ。
今日はクリスマスイブ。
コンビニの店長、定員はサンタの洋装を着込み、
ケーキ屋の窓は、
このときを待ってましたと言わんばかりに、
閉店の後にハサミを手に準備したであろう飾りが窓に張り付いており、
その窓の向こうにはクリスマスツリーがあり、
定員がが右へ左へと盛んに動いていた。
震災のときの自粛活動は、
積極的に復興を妨げようとしている活動に映り
はなはだ奇妙な感じがしたが、
自分のこととなると、自らのため、結果的に周りのために、
一生懸命、機会を利用して動き回ろうとしていることをしみじみと感じた。
図書館で本を返し、三鷹駅へと着く。
これで今日の散歩も終わりである。
ご飯を食べて帰ろうかと思ったが、
自己満足で外に出て、たんまりと溜まった冷蔵庫の中身を無視して
余計な金を使うとは何事よ、
とバスで帰ることにした。
自宅最寄のバス停を降りた。
そういえば忘れていたと
神社とともに写真を撮りに何度か訪れたことのあるバス停そばのお寺に足を運び、
今日の散歩を終えることにした。