ソチのパラリンピックが本日閉会したそうである。
オリンピックには興味がない僕は一度も試合を見ることはなかったし、パラリンピックも何がどうであったのかは知りはしない。
そんな僕が何かを語る資格はないのかもしれないがよく分からないことがある。
それはオリンピックとパラリンピックというのが別の催しとして存在することである。
スポーツのことも知りもしない僕はただ無理解なことを示すだけのことかもしれないが、
パラリンピックで行われる競技を一つのオリンピックの競技としないのは何故であるのか理解できない。
想像するにそれぞれの催しで重なる競技はないのではないだろうか?
そんな競技があるのかどうか知らないが、例えばパラリンピックに松葉杖でのマラソンがあるような気がするが、
一方、オリンピックにはそのような競技はないような気がするがする。
全て競技を逐一挙げてみれば、同一のものもあるのかもしれないが、
多分、殆どは重ならないのでないだろうか。
別にそれら別々の種目を一つのオリンピックの競技として、世界一を争うことに何の不思議はないような気がする。
大会を分けることで、
真の世界一とは認めたくはないという壁がまるであるようには思えないだろうか?
人は差があると感じることで何か秩序と言うか落ち着く部分があるのかもしれない。
人の書いた文章というのは稚拙であると感じることがあったりとか間違いなどを次々と見つけ出したりすることはしばしばあるのではないでしょうか?
さて、自分の作成した文章。
練りに練って、自分の中で審議に審議を重ねて絞り出された文章。
あの稚拙な文章を書く彼に色々と指摘される。
確かにその通り。
こんなに間違っているのはどうしてだろう。。。
人の成果物は貶しやすいが、大概は自分も大差ないか、けなされるネタさえも提供できていなかったりするのかもしれない。
・省エネというのはCO2の削減のためにやるのか?
・CO2の削減は法律で決められているからやるのか?
・つまり、省エネは法律で決められているからやるのか?
・省エネ運動をお知らせしない場合、どれだけのクレームがあるのか?
・御協力しろとは、具体的に何を協力しろということなのか?
理解して口を閉じることが協力なんだろう。
どれだけ筆者の意図を汲み取り、また理解できたのか?
とりあえずコメンテーターとして振る舞うのは楽なんだろう。
3月3日
女の子の健やかな成長を願うお祝いの日と言っても、今どきは男の子が喜んで家に帰る日となっているのかもしれない。
旧来は人形に想いを込めるようにして、今は美として崇める対象としても存在はしているものの、
ひな祭りにはから揚げを食することからも分かるように、現在は庶民の粋な心意気を現す行事となっている。
宗教や道徳観に閉じ込められた世界から社会が開花して文明が新たな時代を迎え肉に食らいつくことが許されるようになると、
庶民の時代が到来した。
ある年の3月3日の日、母親は家を守る柱となるべき5歳の娘にどんなお祝いの日を仕立て上げようかと考える。
彼女はふっと庭に出ると庭をバタバタとはためくふっくらした鶏一羽の首根っこを引っ掴み取った。
そして今度は台所の棚からはこれまた新しい食べ物であり、いつか何かのためにと動物から搾り取って貯めていた油の詰まった瓶を取り出した。
肉という新しい栄養満点な食い物を油で揚げることにより、
例え飢饉の時が訪れたとしても、
外で闘いを求める頼りない男達の代わりに彼女は逞しく生き延び次の時代、家庭を支える大きな人間になって欲しいという想いを込めたわけである。
文明時代が訪れ、空虚な思想が打倒されていき、
生活の中、生まれて来る英智が新たなカタチとして今の習慣として構築されてきた。
呑気に休んでいてどうして生き延びることができるんだい?
3月3日のひな祭りが祝日でないのは、
文明開化の結果、庶民生活が投影された行事になったという変遷があったからである。
人の作った、でも何故かその姿が当然当たり前の真理の如く存在しているもの。
ゼロであったり5であったり区切りが良いという数字に一喜一憂する気持ちが分からないというか嫌いだ。
そうは言っても三十歳を越える前後は、
その数値を一つの山として多いに気にしていたし、
超えると何か新しいことが始まったわけではないが、
それを区切りとして意識して行動することは一般的によくあることで、
実際に一つ分け目が存在することはあると思う。
私は山を越える前には果たさなければと、
日本を離れ学生時代より思いを馳せていた土地へと向かい、
その地で三十歳を迎えた。
一週間前、四十となる一つ前の日を迎えた。
何故か自分は自分で一つ何かの儀式を遂行しようと
スーパーでアルコールとツマミを購入した。
別に好みのお酒がある訳ではなく
どれにしようかと眼を左右にギラギラと動かすと素足のデザインが見えた。
人生はまるで旅のようだという陳腐な言葉がよく使われると思う。
三十で何かやり残したことは?
僕は三十前半のある日、
交通事故での怪我のリハビリのため、
保険金で得たお金を使い東京より東海道を歩き始めた。
始めた当初は少し頑張れば、
京都にたどり着くものだと思っていた。
何とか京都まで着くことができれば、自分は杖を投げ捨て歩き始めているような気がしていた。
東京で自分の飲み屋をたたみ、東海道を歩く人と小田原で出会い、
一緒に箱根の山を超えた。
芦ノ湖畔で一泊すると翌朝は雨だった。
芦ノ湖を去る記念として箱根駅伝の折り返し地点のモニュメントに向かい階段を降りようとすると、
足が滑り頭から転落すると血が流れた。
体の不自由である社長の下、彼は働いたことがあるとの話をしていた。
内出血よりも血が流れる方がいいと思いながら頭にバンダナを巻く僕に対し彼は焦ることはなかった。
淡々と僕の行く手を車から守るよう進む彼の絶妙な先導の下、我々は箱根の山を下り沼津へと向かった。
途中で農家を覗く。
作業をする初老の女性に話しかけた。
何かの思いを馳せ東海道を歩く二人。
『我々には呑気に旅なんてするお金なんてないよ』
旅なんて時間のある人しかできない道楽にしか過ぎないのであろう。
その時の同行者は、時間はあったのかもしれないが金はなく野宿していたが、
私はお金を持ちホテルに泊まりながら先に進んでいた道楽人に過ぎなかった。
静岡まで進んだ後、
東京に戻りしばらく就職活動をして職を見つけ、またそのうちに結婚した。
金のかかるけど、特に愉快なわけではない個人的な道楽に何度か彼女に付き合わせる形で
東海道を先へと進み
数年かけて三河安城までたどり着いた。
まだまだ京都までは遠い道のりである。
そんな訳で死ぬまでに二人で京都にたどり着くか判断がつかない状態で三十代が終わってしまったのが、
心残りであった。
この旅は何か満たない歯切れの悪い自分を象徴するようであり、
何ともやり切れない気持が湧いてくるが、少しづつは前へとは進んでいるとは思う。
この先進むのが京都であるのか、
はたまた全く別の目的地となるのか分からないが、
また明日から始まる四十代の月日を先へと進む人生へとしなければと思う。
果物をぶら下げる木を備える家を見る。
暗い空のなか、月とともに世を照らす光に写ることはないだろうか?
僕は夜も昼も果物が成る家の側を通り過ぎるのが好きだ。
会社から家は比較的近いこともあり、
タクシーで帰宅した。
タクシーを捕まえるのは苦戦するかと思いきや
会社の前で少し待つとタクシーがやって来た。
こんな雪の日は駅ではタクシーはすぐに捕まらないでしょう
運転手は言う。
個人タクシーは家に帰るでしょ。
お客さんは増えるけど
ゆっくり走るので数は捌けない。
家に帰りたいですよ。
車や人とすれ違うことがないせいか
通常よりも安価で家にたどり着いた。
気をつけてくださいね。