再開発

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久しぶりに駅に程近い回転寿司屋に入る。

あまり高くなく、味もそこそこであり、
いま流行りのチェーン店よりも少し冴えない感じもあるが落ち着いた感じのところで、
家で食事を作るのが面倒な時に入店している。

やっぱりここは安くて味も悪くないしいいね、
と言いながら外に出る。

店のガラスの前に垂れ下がる簾に髪がかかっており、
どうやら今月で閉店となるそうである。

そこに書かれた文面がただしいのであれば、
町の再開発の煽りをうけ撤退することになったそうである。

再開発について、市の計画を見ると次のようなことが書いてある。

『現状の問題点:
魅力ある施設が少なく、他都市への購買層の流出が激しい。
整備課題:
魅力ある駅前地区にふさわしい各種施設の配置を検討する。
集客力のある店舗、専門店の誘致を検討する。』

正しいことを進めているのかもしれないが、
何かがなくなっていくのは寂しさもあり、
その気持ちと一緒に魅力ある何かも併せて捨てられ時に流され消えてなくなるのであろう。

教育

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先日、役所に行った。
書類が出来るのを待っている時、
ソファの側に置いてあった本を手に取った。

幼児向けの本で、世界の国々を紹介する本である。

ロシアのページを開く。

あいさつは『ドーブルイ』とのこと。

他言語の発音をカタカナで正しく表現できないから、それは仕方ない。
明らかに単語が違うというのはまずいのではないかな?

採算には見合わないのかもしれないが、
きちんと適当な人が担当して確認していないのではないだろうか。

小さいうちからこんな風に一つ一つ踏み外して気が付いたらどうにもならない隔たりがあるなんてことは、
どこにでも、いつでもあることなんでしょうね。

ロシア語
ドーブルイ ヂェーニ – こんにちは

ドーブルイは形容詞で、良い、とか、善良な、という意味。
ヂェーニは名詞で、日、昼間、という意味。

そんな訳で、ドーブロエ(語尾が名詞により変化) ウートラ(朝)と言えば、おはよう、になり、
ドーブルイ ヴェーチェル(晩)で、今晩はになります。

生き物の魅力

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猫という生き物は人気があるのか嫌われ者なのか。

今夜も彼らが泣き叫ぶ声が聞こえる。

 

焼きそば祭!

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ゴールデンウイークと言えば焼きそばである。

連休も終盤の少しの哀しさも混じった佳境に入り、祭りの時のように今か今かとワクワクしながら鉄板の前で待つあの時のように、今日は家の中に鉄板を広げて、家族皆で最後の楽しい時間を満喫されていることと思う。

ところで祭という言葉は、考えると意外と難しい気がしてきた。

簡単に言えば祈りを捧げる儀式と言えばよいであろうか。
ただ、近来よりこのような意味合いはあまり含まず、人々の集う楽しい催しという意味で使われることが多いのかもしれない。

例えば、さっぽろ雪まつりのホームページには次のような説明がある。

「雪まつりは、1950年に、地元の中・高校生が6つの雪像を大通公園に設置したことを きっかけに始まりました。雪合戦、雪像展、カーニバル等を合わせて開催、5万人あまりの人出で予想以上の大人気でした。以後、札幌の冬の行事として市民に定着していくことになります。」

カーニバルという言葉は、宗教的な意味合いがありそうだが、
恐らくはここではそのような意味は込めずに、
人々が純粋に楽しむ場として、「祭」という言葉を使っているのであろう。

毎日の生活のその瞬間瞬間だけでなく、もっと楽しく喜ぶために作り上げられた祭という昔から伝わった場だけではなく、
心を紅葉させる催しを少しでも増やせたら、
ということなのであろうか。

ところで、町祭りを渡り歩くと、同じ人が鉄板の向こうで焼きそばを焼いているのを見ることがあるかもしれない。

だいたい収穫祭であれば、毎年の習慣であり、1年待てばまた来るのだが、
待てと言われると1年は長いもので、その瞬間は普段とは違う濃さを感じる人も多いのではないだろうか。

ただそこで焼きそばを焼く彼は、それが日常生活であり、
あんまり重々しく手間のかかりすぎるものであってはならないのかもしれない。

手軽でないと、日常的に、自分に、そして周りの人に人生の喜びを与えるのは難しいのかもしれない。

連休

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連休の谷間の木、金曜日。
役所に行く必要があったので、
二連休を取った。
朝早く起きれば良いだけの話なんだろうが、
結局は身体が空いたのはもう暗くなり始めた頃。
夜は夜でいいものだけど、
こんな生活に申し訳なく思ってしまう。

アートと生活

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今日はいくつか美術館を回った。

 

ゆっくりと時間と過ごす時間もなく、

ただ過ぎ去るように展示物を見て回る。

 

始めに見た映像の美。

 

現代的と言っていいのか知らないが、

シュールな映像を人々が眺める。

真剣にそれを見つめる人々がどんなことを感じているのかに興味を覚えた。

美術というのは基本的には哲学感の描写であると思うのだが、

それを明確に感じるにはゆっくりと感じ思うゆとりと時間が必要なのかと思うのだが、

ただ過ぎ去るだけで終わってしまった。

 

 

次の美術館。

 

そこはシンプルに分かりやすい花をモチーフにした美の展示物のコレクションであり、

個人的には分かりやすかった。

哲学感を感じなかったとしても、

単純な美しさを見るというのも悪いものではないような気がするが、

美術館というのは何だか堅苦しいところであり、

お茶を飲み会話を交わしながらその展示物に接する方がいいような気がしないだろうか?

と思いながらそこから次の場所へと進んだ。

 

最後に訪れたのが、浅草にある

「アミューズミュージアム~布文化と浮世絵の美術館~」

というところであった。

 

そこは主に南部地方の布を紹介しており、

以前よりボロというものがファッションでも流行っているような気もするが、

やはり布を長年かけて継ぎ接ぎで作り上げたその形状は

とても分かりやすく綺麗なものに見えた。

 

 

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裸足で歩くと大地からの熱が伝わってくる

帰路

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まだ今の場所に住み始めて2年弱と短いが、
いつも自分の近所に景色であり、またその時、その季節に柔らかでありながらキレイだと思わせる刺激を与えてくれる場所になっている。

最寄りのバス停の前にあるその寺院。

夜、帰宅の途、バスを降りると、
ふと境内の方を暫く眺め、
それから家の方へと歩いていく日がよくある。

今日、一週間の出張から帰りいつものバス停で車から降りた。

この一週間で、また暖かい季節へとぐんぐんと進んだようであり、
また新しい息吹を与えてくれる景色であるとともに、
家に帰ってきたという思いを強く感じさせてくれる場所であった。

また、春の芽に触れることのできる週末になるか思うと心が沸き立ってきた。

生れけり 死ぬ迄は 生くるなり

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三連休の二日目。

 

体調は優れなかったが、

「季節を見ていないでしょ」

と家内に連れ出されて外にでた。

 

言われる通り会社への行き帰りの車窓をたまに眺めるくらいで、

仕事に追われて昨年の秋も季節の移り変わりをかすかに雰囲気を感じるだけで過ぎ去り、

冬と言えば寒いという空気を感じることにより十分というほどに季節を体には受けてはいたものの

新鮮で澄んだ空気の中に映る景色をゆるりと眺めていたわけではなかった。

 

外へ出ると、確かに春は来ていた。

 

毎年、サクラを見に外へでることはある。

 

ただし、サクラに興味や大きく心引かれているわけではなく、

サクラの幹より顔を出す鮮やかな緑色に心動かされ、それがゆえにサクラを見に行くのが習慣であった。

 

 

今日もあの綺麗な春の緑色が広がりつつあった。

 

 

その日の目的は町を散歩することではなく、

「武者小路実篤記念館」を訪れることであった。

 

武者小路実篤に興味があったわけでも書を読んだ記憶がなかったわけで、

その記念館に訪れる大きな目的なりがあったわけではない。

家内は東京にある色々な文化施設に無料、または割引料金で入場できる「ぐるっとパス2013」というのを持っており、

3月31日が期限ということでまだ訪問していなく、また身近な場所にある施設に訪れてみようという企画であった。

 

バスを待つが休みのためか30分ほど時間を過ぎてもバスはその姿を現さず、

歩いてその記念館がある仙川へと行く羽目となってしまった。

 

そのお陰といっていいのか、

文頭に述べたように生き生きとした緑の芽に触れることができて、

毎年何か新鮮な何かがあるわけではないのであろうが、

またいいものに出会ったと喜べるのが幸せなものである。

 

武者小路実篤の記念館に着く。

 

個人の屋敷跡ということであるようであるが、

随分と大きい敷地であり、来園者が多いわけでもなさそうで

ゆったりと腰を落ち着けるには心地の良い場所のようである。

 

のんびり歩いて来たために閉門時間が近づいていることに加え、

強い疲労感があり何か展示物の説明を読む気力はなかったのであるが、

実篤の書いた言葉や絵の表面を眺めた。

 

言霊というのか良く分からないが、

世間では何かもっともらしい言葉の展示や売り買いがよく行われているようだが、

この記念館の主の実篤もそのような言葉を多く残しているようであった。

 

そのなかで僕の目を引いた言葉があった。

 

「生れけり 死ぬ迄は 生くるなり」

 

その日は他の美術館も訪問する予定であったが、

時間はなく、そのまま用事のあった吉祥寺へと向かった。

 

 

感情を現す、伝える

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LINEのようなコミュニケーションツールが流行っているが、
私も同様のアプリは使っているため、
どのようなものであるのか全く知らない訳ではない。

僕にはチャットを好んでいた時代があったが、
メールを含め絵文字を使ったことがなかった。

LINEのようなコミュニケーションツールには
絵文字の発展形と言えば良いのか、
全くの別物であるのか知らないが、
スタンプという自分の気持ちを伝えるためのツールがある。

僕は初めはスタンプを利用していなかったが、
人よりつまらないと咎められたこともあり、
あまり拒否してばかりではまずいかと思い利用するようになった。

僕は無料のものを利用しているが、
販売されているものを購入したり、景品としてあるものを手に入れて利用することが、
一般的にあることのようである。

今日、自動販売機を目の前に、
スタンプの景品を人の目を引くためのネタとして掲示されているのを見た。

『こんな風に人と人との媒体となる感情が、
自分とは違う個人の感情の物理的描写物が景品として人に配られ、好んで利用されるものなんだなあ』

こんな風に少々馬鹿らしく思ってしまったが、
すぐに自分でその考えを否定した。

人に分からないもの、知らないことは伝わらないし、
皆んなと共有できるものを媒体とするのが楽でもある。
現実、そうしなければやり取りが困難なだけでなく、
叩かれることはよくあることであろう。

元々、物理的に人と人が面を合わせていても、
何が表面に現れているかは分ったものではない。

所詮使い方次第であり
ネットと現実を全くの別物と決めつける風潮があるが、
本質的には何も変わらないと思う。

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