Archive for the ‘散歩’ Category

テスト

月曜日, 4月 25th, 2016

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出会い

日曜日, 4月 24th, 2016

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オリンピック

日曜日, 7月 5th, 2015

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景色は変わる。

前回の東京オリンピックでは、
風景が変わったそうである。

次回はどれだけ新しく変わっていくのであろうか?

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権力に挑む

月曜日, 5月 11th, 2015

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本人は勇気を奮ってやったことであっても、
人からは無視されるか、馬鹿にされるだけでしょう。

理解を求めることはできないかもしれない。

それでもやらなければいけない時もあるのでしょう。

牙を磨く

月曜日, 5月 11th, 2015

しばらく包丁の刃を研いでいなかった。

先日散歩した時、
 『包丁研ぎます』
と書かれた旗を見た。

日にちは5月10日で、今日がその日であった。

包丁を持ち、その場所に着くと、一人の麦わら帽子を被った人が
黒くなった熟練の手を前に後ろにと手を動かしていた。

『暑いから、その日陰で待っていて下さい』

その人は僕の不自由な足を見ると、自分の病気を打ち明ける。
初老の身体に無理をしているのかもしれない。

もともとはカメラ屋を営んでいたそうであるが、このデジカメの時代、商売上がったりであったそうだ。
特に同情を求める訳でもなく、淡々と語るその姿。
知り合いに勧められ、今日はここに座ることにしたとのことである。
本日の売り上げを聞くと、金額を聞くつもりではなかったが、
商売というのはこんなもんだと、具体的な札数を答えてくれた。

『切れるから気をつけなよ』

その人は立ち上がり手を差し出してきた。
また次の機会に会えればと思いながら、僕らは握手を交わし別れた。

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feel free to walk

火曜日, 2月 24th, 2015

2014年夏ごろから初冬までのある東京の町並み。

建国記念の日

木曜日, 2月 19th, 2015

JC国史会議議長の棟久裕文(むねひさ・ひろふみ)氏は「日本では自国を誇りに思いながら、建国は知らないという矛盾した状況になっている。グローバル社会に向け、義務教育段階から建国を含めた国史教育を充実させていく必要がある」と話している。

引用元
産経新聞  
2月11日 7時55分配信
建国の日「知っている」2割未満 米中では9割超 「自国誇り」は7割

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150211-00000086-san-soci

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矛盾した状況というが、本当に矛盾した事象だろうか?

誇りに思う、という人が多い時点で、国の教育事業は大成功を収めている、と言えると思う。

建国記念日は、神武天皇が即位した日であるとのこと。

その日の起源を知らない人が大多数である。
社会は、このような人々により創られたものであり、そして、今、人々が重要として敬う事柄が社会風景として表れているはずである。

何の情報を押し付ける事が教育だろうか?

この新聞記事には、中国、カナダ、米国といった国々では、ほとんどの人が建国の日を知っていると紹介されている。
これらの国々の人々の間では、多民族国家という自覚に満ち溢れていると思われる。
そのような国の数値と比較することに意味があるとすれば、国家の過剰な統制や戦争を想起してしまうのは当然の事に感じる。

現実に表れている風景と棟久氏の言う矛盾とが同居する社会を知ること。

このことの方が、歴史教育として意味があると思う。

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今日の果物屋

火曜日, 2月 10th, 2015

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工事現場の草

日曜日, 2月 1st, 2015

新しいマンションが建設されている。

数ヶ月のうちに、そこに住む人が羨ましく思えるような建物が、この土地の新しい光景として現れるだろう。

今日は昨日の雪から一転して快晴だった。

その工事現場の白い壁の前、草が陽を浴び、強い風に揺られながら朴訥に輝いていた。

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明日、日曜日はお客様を招く予定であった。

今日は食事の準備で、足りないものを手に入れるために外に出た。

なるべく近くで済まそうと、ドラッグストア、野菜・花の販売機、コンビニエンスストアを近い場所から順に回ったが、必要な物が全て揃わずに、バスに乗りスーパーマーケットに向かった。

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『家庭料理』

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家庭に引き継がれ、手をかけて作られる『家庭料理』、『おくふろの味』といった言葉から、個人的には、手作りの料理というと『調理する』という過程を想起してしまう部分がある。
その調理をする手間は、勿論あることは間違いない、と思う。
また、食材を探したり、お客様を迎えるためにちょっとした装飾といったものを探したりすることも時間と手間のかかることだと、普段から自分で食事を作る習慣のある人にとっては当たり前のことであると思うが、そのことを、バスを待ちながら、今更のように強く感じた。

コンビニエンスストア、スーパーマーケットにある食材やお弁当の値段に、誰もが驚くことが多いのかと思う。

今日は、休みの日。晴れた気持ちよい空が広がっていた。

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昨日の悪天候の影響もあるのかもしれないが、スーパーには、多くの人が集まっていた。

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色々な手間を考えたとき、出来合いの食品が安価に販売されていることへの不安を感じることが多い。
どうして、そんな値段で販売して、利益を得ることが可能なのか。
それでも、安い方が良いわけで、最良とは思っていなくても、お弁当を買うことが選択肢として最適としてしまうことが多いのが私の現実である。

このように強い魅了を放つ『安価な食品』を実現しているのは、長い間を掛けて構築された産業の発展と社会のシステム化のお陰であるのであろう。

自分で作った料理が、その苦労に見合った味になるとは限らないし、それを食する人が喜んでくれるかどうかは分からない。

社会システムの影に隠れるように、個性は消えていく。
食欲をそそる、そして、安心して食べることができる物品が世の中には並んでいる。

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どんど焼き

月曜日, 1月 19th, 2015

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