車窓からの風景

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『どうして僕はそのように考えるのか?』

色々なニュースや社会を見て感じる思いや意見。

その思いが募る理由や、その意見へと誘導されていく理由というのは、人生体験に依存する部分が往々にしてあると思います。

僕の場合は、学生時代に旅行したミャンマーで、列車に乗っていたときのある一瞬の出来事が、僕の思いの根っ子にあるんだなあ、とその時の光景をたまに思い出すことがあります。

その日のことを、どこかに記録していたはずだと思い、探したのですが見つかりませんでした。
その代わりに、数年前、今週と同じ事を考えた日があったようです。そのときに書いたメモを紹介させて下さい。

■車窓からの風景

myanmar_railway

東京から茨城へ。車窓より。青空の下、整備された田畑が山の前に美しく広がる。トラクタがぽつりと浮かぶ点景。人の姿が流れゆく。野草の中、ぱっと、小さな神社の鳥居の姿が現れる。

学生時代、ミャンマーを1ヶ月ほど旅行した。

ミャンマーでは、列車での移動が楽しかった。全ての列車がそうであったのかどうかは覚えていないが、窓ガラスがなく、風を直に感じながら緑の広がる風景、人々の生活の一瞬を眺めるのが好きだった。旅の後半のある日に、いつものように車窓から子供達の姿が見えた瞬間。

僕も小さいころ、目の前の彼らが友達と遊ぶように、正にその景色の一員が如く、体を、声を、揺るがした時間があった。
時が流れ、僕は今、彼らよりも大きな体を持ち、また、人生を経験した。彼ら一人一人も、僕と同じように、これから人生という時を刻んでゆく。僕の目の前を瞬間で過ぎ去り、おそらく二度と会うことはないであろう彼らは、僕と同じか、それ以上の世界を持っている。

こんな世界の単純さに、突然、気がついた。そして、この世界が果てしなく大きく複雑になっていく姿が頭の中に広がった。

今日、茨城へ向かう電車で、ミャンマーで感じたことと同じことを感じた。
綺麗とか綺麗じゃないとかは、主観なのでどうでもいい。この景色、そして、この現在の物理的な形状に至るには、どれだけの長い歴史を刻み到達したものなんだろうか?
視覚を通じて描画される光景の中に生きる心も、その光景に入り混じる形で立ち尽くしており、目の前を一瞬のうちに流れ去る。

その繊細さ、巨大さを、人は想像することができるのか?

今、そこに立つものを壊すのは、ほんの一瞬で可能なことなのかもしれない。

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