Archive for the ‘駄文’ Category

焼きそば祭!

火曜日, 5月 6th, 2014
d41d8cd98f00b204e9800998ecf8427e.JPG

ゴールデンウイークと言えば焼きそばである。

連休も終盤の少しの哀しさも混じった佳境に入り、祭りの時のように今か今かとワクワクしながら鉄板の前で待つあの時のように、今日は家の中に鉄板を広げて、家族皆で最後の楽しい時間を満喫されていることと思う。

ところで祭という言葉は、考えると意外と難しい気がしてきた。

簡単に言えば祈りを捧げる儀式と言えばよいであろうか。
ただ、近来よりこのような意味合いはあまり含まず、人々の集う楽しい催しという意味で使われることが多いのかもしれない。

例えば、さっぽろ雪まつりのホームページには次のような説明がある。

「雪まつりは、1950年に、地元の中・高校生が6つの雪像を大通公園に設置したことを きっかけに始まりました。雪合戦、雪像展、カーニバル等を合わせて開催、5万人あまりの人出で予想以上の大人気でした。以後、札幌の冬の行事として市民に定着していくことになります。」

カーニバルという言葉は、宗教的な意味合いがありそうだが、
恐らくはここではそのような意味は込めずに、
人々が純粋に楽しむ場として、「祭」という言葉を使っているのであろう。

毎日の生活のその瞬間瞬間だけでなく、もっと楽しく喜ぶために作り上げられた祭という昔から伝わった場だけではなく、
心を紅葉させる催しを少しでも増やせたら、
ということなのであろうか。

ところで、町祭りを渡り歩くと、同じ人が鉄板の向こうで焼きそばを焼いているのを見ることがあるかもしれない。

だいたい収穫祭であれば、毎年の習慣であり、1年待てばまた来るのだが、
待てと言われると1年は長いもので、その瞬間は普段とは違う濃さを感じる人も多いのではないだろうか。

ただそこで焼きそばを焼く彼は、それが日常生活であり、
あんまり重々しく手間のかかりすぎるものであってはならないのかもしれない。

手軽でないと、日常的に、自分に、そして周りの人に人生の喜びを与えるのは難しいのかもしれない。

日曜日, 3月 30th, 2014
d41d8cd98f00b204e9800998ecf8427e_6.JPG

裸足で歩くと大地からの熱が伝わってくる

感情を現す、伝える

日曜日, 3月 23rd, 2014
d41d8cd98f00b204e9800998ecf8427e_4.JPG

LINEのようなコミュニケーションツールが流行っているが、
私も同様のアプリは使っているため、
どのようなものであるのか全く知らない訳ではない。

僕にはチャットを好んでいた時代があったが、
メールを含め絵文字を使ったことがなかった。

LINEのようなコミュニケーションツールには
絵文字の発展形と言えば良いのか、
全くの別物であるのか知らないが、
スタンプという自分の気持ちを伝えるためのツールがある。

僕は初めはスタンプを利用していなかったが、
人よりつまらないと咎められたこともあり、
あまり拒否してばかりではまずいかと思い利用するようになった。

僕は無料のものを利用しているが、
販売されているものを購入したり、景品としてあるものを手に入れて利用することが、
一般的にあることのようである。

今日、自動販売機を目の前に、
スタンプの景品を人の目を引くためのネタとして掲示されているのを見た。

『こんな風に人と人との媒体となる感情が、
自分とは違う個人の感情の物理的描写物が景品として人に配られ、好んで利用されるものなんだなあ』

こんな風に少々馬鹿らしく思ってしまったが、
すぐに自分でその考えを否定した。

人に分からないもの、知らないことは伝わらないし、
皆んなと共有できるものを媒体とするのが楽でもある。
現実、そうしなければやり取りが困難なだけでなく、
叩かれることはよくあることであろう。

元々、物理的に人と人が面を合わせていても、
何が表面に現れているかは分ったものではない。

所詮使い方次第であり
ネットと現実を全くの別物と決めつける風潮があるが、
本質的には何も変わらないと思う。

難しい

金曜日, 3月 21st, 2014
d41d8cd98f00b204e9800998ecf8427e_3.JPG

生きているとどうしたらよいのか
判断に窮することがある。

強く主張した方が良いのか、
静かに畏まっているのが正しいのか。

陽のあたる側面しか見ない、見えないことがある。

その目の前に広がる姿が事実であり正であるのであろう。
そいつを叩き潰すのか、受け入れるのか。

僕はどう先に進んだらよいのか分からずに
立ち止まって右往左往した。

オリンピック

月曜日, 3月 17th, 2014
_1.JPG _2.JPG _3.JPG _4.JPG _5.JPG

ソチのパラリンピックが本日閉会したそうである。

オリンピックには興味がない僕は一度も試合を見ることはなかったし、パラリンピックも何がどうであったのかは知りはしない。

そんな僕が何かを語る資格はないのかもしれないがよく分からないことがある。

それはオリンピックとパラリンピックというのが別の催しとして存在することである。

スポーツのことも知りもしない僕はただ無理解なことを示すだけのことかもしれないが、
パラリンピックで行われる競技を一つのオリンピックの競技としないのは何故であるのか理解できない。
想像するにそれぞれの催しで重なる競技はないのではないだろうか?

そんな競技があるのかどうか知らないが、例えばパラリンピックに松葉杖でのマラソンがあるような気がするが、
一方、オリンピックにはそのような競技はないような気がするがする。
全て競技を逐一挙げてみれば、同一のものもあるのかもしれないが、
多分、殆どは重ならないのでないだろうか。
別にそれら別々の種目を一つのオリンピックの競技として、世界一を争うことに何の不思議はないような気がする。

大会を分けることで、
真の世界一とは認めたくはないという壁がまるであるようには思えないだろうか?

人は差があると感じることで何か秩序と言うか落ち着く部分があるのかもしれない。

木曜日, 3月 6th, 2014

知

 頭がいいと何かいいことがあるのでしょうか。
知を使い人を押しのけて、
初めて町の中心へと登りつめることができる。
そして、そこでオアシスに佇むことができるのかもしれない。

人の成果のけなし方

月曜日, 3月 3rd, 2014

お知らせ

人の書いた文章というのは稚拙であると感じることがあったりとか間違いなどを次々と見つけ出したりすることはしばしばあるのではないでしょうか?

さて、自分の作成した文章。

練りに練って、自分の中で審議に審議を重ねて絞り出された文章。

あの稚拙な文章を書く彼に色々と指摘される。
確かにその通り。
こんなに間違っているのはどうしてだろう。。。

人の成果物は貶しやすいが、大概は自分も大差ないか、けなされるネタさえも提供できていなかったりするのかもしれない。

・省エネというのはCO2の削減のためにやるのか?
・CO2の削減は法律で決められているからやるのか?
・つまり、省エネは法律で決められているからやるのか?
・省エネ運動をお知らせしない場合、どれだけのクレームがあるのか?
・御協力しろとは、具体的に何を協力しろということなのか?

理解して口を閉じることが協力なんだろう。

どれだけ筆者の意図を汲み取り、また理解できたのか?
とりあえずコメンテーターとして振る舞うのは楽なんだろう。

ひな祭りとから揚げ

水曜日, 2月 26th, 2014

3月3日

女の子の健やかな成長を願うお祝いの日と言っても、今どきは男の子が喜んで家に帰る日となっているのかもしれない。

旧来は人形に想いを込めるようにして、今は美として崇める対象としても存在はしているものの、

ひな祭りにはから揚げを食することからも分かるように、現在は庶民の粋な心意気を現す行事となっている。

宗教や道徳観に閉じ込められた世界から社会が開花して文明が新たな時代を迎え肉に食らいつくことが許されるようになると、

庶民の時代が到来した。

ある年の3月3日の日、母親は家を守る柱となるべき5歳の娘にどんなお祝いの日を仕立て上げようかと考える。

彼女はふっと庭に出ると庭をバタバタとはためくふっくらした鶏一羽の首根っこを引っ掴み取った。
そして今度は台所の棚からはこれまた新しい食べ物であり、いつか何かのためにと動物から搾り取って貯めていた油の詰まった瓶を取り出した。

肉という新しい栄養満点な食い物を油で揚げることにより、

例え飢饉の時が訪れたとしても、

外で闘いを求める頼りない男達の代わりに彼女は逞しく生き延び次の時代、家庭を支える大きな人間になって欲しいという想いを込めたわけである。

文明時代が訪れ、空虚な思想が打倒されていき、

生活の中、生まれて来る英智が新たなカタチとして今の習慣として構築されてきた。

呑気に休んでいてどうして生き延びることができるんだい?

3月3日のひな祭りが祝日でないのは、

文明開化の結果、庶民生活が投影された行事になったという変遷があったからである。

 

親切

月曜日, 2月 17th, 2014
d41d8cd98f00b204e9800998ecf8427e_2.JPG

親切な心。

うっとおしく思うことがあるかもしれない。

余計なお世話であることも多々あるだろう。

彼の都合や気持ちの押し売りのこともあるかもしれない。

 

とりあえず腹が立つだろうけど、 そこは気持ちを抑えるのが世の大人と評価されるのであろう。

真相とは何か?

月曜日, 2月 10th, 2014

佐村河内守という名前が出てくるニュースを興味深く読んでいる。

 

最近音楽を聴くことがないし、テレビ媒体に触れることもないので知らなかったのであるが、

佐村河内守という方が聾唖者であり、またすばらしい作曲家であったと評価されていたようである。

 

今となっては、実際に世間でどのように評価されていたのかは、

一度も彼に関する話題を聞いたことがない僕にとっては知る由もないのだが、

いずれにしろ世間で評価されていた人間であったようである。

 

 

 

数値の決め方に何かしらの力なり哲学感が籠められることもあるだろうから、

一概には決めつけることはできないのかもしれないが、

スポーツは数値という評価単位があるので、

人による好みはあったとしても、

そのスポーツ選手の勝ち負けであったり、良し悪しというのは分かりやすい気がする。

 

スポーツはその選手だけではなく、

周りに人とのつながりによって、そこで生じる結果というものが左右されることもあると思うが、

芸術というのは

作り手とそれに触れる人との共同作業でしか成り立たない。

 

 

極端なことを言えばスポーツは選手だけでも成立する。

 

 

一方、芸術はそれを見る人、それを聞く人、それに触れる人により

初めて現実として目の前に物理的に作り出され、評価されるものであり、

作り手の力だけではどうにもならない。

 

 

つまりは、それに触れる人による哲学感を目の前に提示されたものに籠めることにより、

その芸術物の完成し、そしてその評価が決まるわけであると僕は理解している。

 

 

 

そんな訳で佐村河内守という人物や彼を評価していたりする人々を貶したりする言動は、

どうしても僕には理解できないというか非常に面白い。

 

 

 

佐村河内守にどんな理由があったかは僕は知らないし、

それが素晴らしいことであったのか、人々から非難されるべきことであったのかは想像できないが、

結果的には人々に満足のネタを提供していたわけであろう。

 

 

事実は知らないが、

現在、佐村河内守という人物が世の中から非難されている現状を見て想像するに

それを触れたある人々にとっては、

自分の哲学感にフィットした形の美しい、もしかしたら悲しいのかもしれないが、

兎も角自身の琴線に触れるイメージを描くことが出来ていたのであろうと思う。

 

 

佐村河内守のゴーストライターであり学校で音楽を教えている新垣という人物が、

佐村河内守とある人々の間で構築された音楽の姿に異を唱えたそうである。

 

 

「これ以上、自分の大好きな音楽で世間を欺き続けたくない」

 

 

どのような旋律を描けば、人を欺くことのない理想的な音楽というものが出来上がるのであろうか?

 

 

 

いずれにせよ楽しめないでいる参加者がいた時点で、彼の作品はすでに終わりを迎えていたのかもしれない。

 

 

モスクワ 地下鉄通路のオーケストラ

地下鉄通路のオーケストラ/2006年モスクワ