Archive for the ‘散歩’ Category

行動力と見える世界

月曜日, 1月 19th, 2015

引っ越して半年以上経つ今でも
歩いてすぐの範囲で新しい発見、光景がある。

一方、地元では、細かく道とその光景が
きちんと頭に入っていることには驚いてしまう。

それだけ動き回り、周りを眺めていたのであろう。
景色は変わりいくがその流れを感じる力を備えたきたのであろうか。

よくある道筋での新しい発見。

少し道を外れて見た新しい景色。

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今日はいい天気だった。

鏡に映る模様が蒼く美しく見えた。

新しく来た道にカメラを持たなかったことが残念であった。

直接的に見ないこと、フィルター越しに見ることで素敵に見えること、
素敵な描写に見て取ろうとすること。

そんなことはよくある。

次回、その創り出した美を携帯電話のカメラを上回る一眼レフのカメラを持参してその美をより素晴らしく正装させてから記録しようところで、もうその時の光景に会える機会は二度とない。

同じ時間に、同じ天の気分の下、その場所にいる可能性はゼロに近いわけであり、
今日も貴重な見事な景色を見た、ということなんだろうと思った。

美を創造する

土曜日, 1月 17th, 2015

 

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フルーツトマト

手をかけて甘く、美味しく造られたもの。

色は濃く鮮やかで形も気の所為か美しく見える。
トマトは小さい頃から嫌いだった。
フルーツトマトを食べたことはないが、
きっと美味しいに違いない。
以前、ブルガリアで食べたトマト。
こんなに身体に素直に溶け込んでいくものであるとは知らなかった。
味は同じではないと思うが、
美味であるものは存在することは間違いない。
これは恐らく見事に創り上げたに違いない。
街中に出ると綺麗な景色が溢れている。
新しいものの典型。
また、古い物を懐かしむための典型もある気がする。
どの花屋も区別がつかないほど見事に着飾られていた。

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必要なもの

月曜日, 12月 22nd, 2014

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寺院用具の総合メーカー

そんな会社があるのは当然のこと。
それでも、それを前面に示されると、
『少しは隠した方がいいのでは?興ざめする人もいるのでは?』
そんな余計な心配をしてしまう。

冬至

月曜日, 12月 22nd, 2014
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平日の散歩 信濃町~新宿

水曜日, 12月 10th, 2014
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前週金曜日、通院のため午後休みを取り、久しぶりに明るいうちに外を歩きました。
陽が落ちるのが早いので、外の景色は思いとは違ってしまうひと時となってしまいましたが、たまには意味もなくデパートに行くのもいいな、と思いました。
人のアイディアというか表現に触れるのは強く悔しさを感じることもありますか、いい刺激になることも多いと今更ながらに思った。

夜のネコ

水曜日, 11月 19th, 2014
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ネコがいた。
僕を眺めている。
手招きすると、大きな体を揺らしながらやって来た。

ハロウィンしちゃうぞ!

月曜日, 10月 6th, 2014
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近年、分業化された社会の中、
自然の恵みと生活を直に感じることが少なくなり、
生きることの喜びと感謝を現す活動に対する復興の取り組みが進んでいる。

その一つが収穫祭のハロウィンである。

お菓子や肉まん、チーズやタバスコ、テリヤキチキンなど、あらゆる天からの恵みを満喫し、
皆で生の悦びを分かち合おうというわけである。

ハロウィンの一ヶ月前になると、人々は町の装飾やその日に皆と共に味わう感謝の印の支度を始め、
社会全体でその日を迎えんと準備を進める。

さて、イベントというのは、
人々がみんなでそれぞれの利益のため、盛り上げていくものであり、
社会的にお金が右へ左へと流すことにより、
利益分配を進めるための重要な活動として、
多くの人が積極的に活用しているのは言うまでもないことと思う。

このような社会活動を見て、いつも思い出すのが東北大震災時のイベント自粛活動である。

この現象を犯罪的な行為として憤りを感じた人は多いと思う。

僕は国民やら民族の誇りとかいう概念が存在する理由がまるで理解できない人間だが、
共同体の存在意義は少しは理解しているつもりである。

震災で苦しむ人が所属する共同体。

世の中に関係を保ちながら人は生きるための活動を続ける。
人々は社会の歯車として働き、各人が産み出した生産物を動力として社会は前に進むとともに余剰の動力を産出する。
より円滑に社会が進むようするために、社会はその動力を歯車に戻していく。

そんな中、独り善がりとも思える倫理観で共同体の動きを必死に停めようとする『自粛』と称する活動は、
僕にはさっぱり理解できないし、苦しむ人を助けようとする差し伸べようとする手を叩き潰そうという活動にしか見えなかった。

値段と質

日曜日, 10月 5th, 2014
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¥360、¥284と書かれたパネルが、
並べられたお弁当の間に立っている。

『安いな』

常識のない僕にとってはいつも新鮮なものに囲まれている。

『この値段で利益があるのだろうか?』

買うときには、どの値段を見ても、高い高いと心が寂しく、哀しくなるものであるが、
自分がこれを買うときに稼ぐ給料やそれに至るまでの過程を考えると、
世の中に販売されている物品の安さに驚くことがある。

アルバイト、パートの給料、社員の給料。

客が残した札束を積み上げたとき、
働く人はその山を如何ほど崩していくのだろうかと考えることはないだろうか?

お弁当を買うこと、家で食事を作ること。

時間と食材やら調理に必要となる諸々の費用から積算される経費と弁当の値段を比べるとすると、
どれだけの差があるのだろうか?

この値段に勝てる家庭料理はないのではないかと勝手に想像してしまう。

原材料を見てみよう。

284円の棚にあるお弁当を手に取る。

『原材料名は容器裏面記載』

お弁当をひっくり返して裏面の記載を見る人は少ないかもしれないが、
見たいのであれば、どうぞそうしてください、ということなのであろう。

僕は容器が裏返しにならないように、
頭の上に上げ覗きこもうとしたが、片手のみが自由であったためか
上手く内容を確認することができなかった。

360円のテーブルに置かれた弁当の容器では、
表面に原材料ラベルが貼ってあった。
そのなかに白飯も売られていたのだが、
炊いたお米にも色々な苦労が注ぎ込まれているのは、そのラベルを見ると分かるであろう。

何とか家庭からお米を炊く機会も奪い取る算段なのか。

小さい昔からの商店が淘汰されていく昨今。

家の中の生活も味が整えられた安価な標準で画一化されていくんだろうか?と思いながらスーパーを出た。

守り神

日曜日, 10月 5th, 2014
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扉を開けると倒れていた。
ちり紙で掬い上げようとすると、
すりすりと身体を動かし始めた。

我が家に家守が住んでいた。

家の外も中も守り神が溢れているようだ。

悩み、願い

土曜日, 10月 4th, 2014
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仕事帰り。
色々と話したいこと、聞いて欲しいことがあるのかな。