佐村河内守という名前が出てくるニュースを興味深く読んでいる。
最近音楽を聴くことがないし、テレビ媒体に触れることもないので知らなかったのであるが、
佐村河内守という方が聾唖者であり、またすばらしい作曲家であったと評価されていたようである。
今となっては、実際に世間でどのように評価されていたのかは、
一度も彼に関する話題を聞いたことがない僕にとっては知る由もないのだが、
いずれにしろ世間で評価されていた人間であったようである。
数値の決め方に何かしらの力なり哲学感が籠められることもあるだろうから、
一概には決めつけることはできないのかもしれないが、
スポーツは数値という評価単位があるので、
人による好みはあったとしても、
そのスポーツ選手の勝ち負けであったり、良し悪しというのは分かりやすい気がする。
スポーツはその選手だけではなく、
周りに人とのつながりによって、そこで生じる結果というものが左右されることもあると思うが、
芸術というのは
作り手とそれに触れる人との共同作業でしか成り立たない。
極端なことを言えばスポーツは選手だけでも成立する。
一方、芸術はそれを見る人、それを聞く人、それに触れる人により
初めて現実として目の前に物理的に作り出され、評価されるものであり、
作り手の力だけではどうにもならない。
つまりは、それに触れる人による哲学感を目の前に提示されたものに籠めることにより、
その芸術物の完成し、そしてその評価が決まるわけであると僕は理解している。
そんな訳で佐村河内守という人物や彼を評価していたりする人々を貶したりする言動は、
どうしても僕には理解できないというか非常に面白い。
佐村河内守にどんな理由があったかは僕は知らないし、
それが素晴らしいことであったのか、人々から非難されるべきことであったのかは想像できないが、
結果的には人々に満足のネタを提供していたわけであろう。
事実は知らないが、
現在、佐村河内守という人物が世の中から非難されている現状を見て想像するに
それを触れたある人々にとっては、
自分の哲学感にフィットした形の美しい、もしかしたら悲しいのかもしれないが、
兎も角自身の琴線に触れるイメージを描くことが出来ていたのであろうと思う。
佐村河内守のゴーストライターであり学校で音楽を教えている新垣という人物が、
佐村河内守とある人々の間で構築された音楽の姿に異を唱えたそうである。
「これ以上、自分の大好きな音楽で世間を欺き続けたくない」
どのような旋律を描けば、人を欺くことのない理想的な音楽というものが出来上がるのであろうか?
いずれにせよ楽しめないでいる参加者がいた時点で、彼の作品はすでに終わりを迎えていたのかもしれない。
地下鉄通路のオーケストラ/2006年モスクワ