新しいマンションが建設されている。
数ヶ月のうちに、そこに住む人が羨ましく思えるような建物が、この土地の新しい光景として現れるだろう。
今日は昨日の雪から一転して快晴だった。
その工事現場の白い壁の前、草が陽を浴び、強い風に揺られながら朴訥に輝いていた。
明日、日曜日はお客様を招く予定であった。
今日は食事の準備で、足りないものを手に入れるために外に出た。
なるべく近くで済まそうと、ドラッグストア、野菜・花の販売機、コンビニエンスストアを近い場所から順に回ったが、必要な物が全て揃わずに、バスに乗りスーパーマーケットに向かった。
『家庭料理』
家庭に引き継がれ、手をかけて作られる『家庭料理』、『おくふろの味』といった言葉から、個人的には、手作りの料理というと『調理する』という過程を想起してしまう部分がある。
その調理をする手間は、勿論あることは間違いない、と思う。
また、食材を探したり、お客様を迎えるためにちょっとした装飾といったものを探したりすることも時間と手間のかかることだと、普段から自分で食事を作る習慣のある人にとっては当たり前のことであると思うが、そのことを、バスを待ちながら、今更のように強く感じた。
コンビニエンスストア、スーパーマーケットにある食材やお弁当の値段に、誰もが驚くことが多いのかと思う。
今日は、休みの日。晴れた気持ちよい空が広がっていた。
昨日の悪天候の影響もあるのかもしれないが、スーパーには、多くの人が集まっていた。
色々な手間を考えたとき、出来合いの食品が安価に販売されていることへの不安を感じることが多い。
どうして、そんな値段で販売して、利益を得ることが可能なのか。
それでも、安い方が良いわけで、最良とは思っていなくても、お弁当を買うことが選択肢として最適としてしまうことが多いのが私の現実である。
このように強い魅了を放つ『安価な食品』を実現しているのは、長い間を掛けて構築された産業の発展と社会のシステム化のお陰であるのであろう。
自分で作った料理が、その苦労に見合った味になるとは限らないし、それを食する人が喜んでくれるかどうかは分からない。
社会システムの影に隠れるように、個性は消えていく。
食欲をそそる、そして、安心して食べることができる物品が世の中には並んでいる。