これは何かの本質を理解する上で、意外と重要な要素になり得ることであると思う。「気がする」、という言葉は他人に対する説得力のない弱気の心の表れであり、例えば、仕事上では不利益となるだけであり評価を落とす要素となることがある。直感、と呼ばれる人の反応は、成功者の結果論を語る場合には、必要な要素として良く語られるのかもしれないが、一般的には、直感に基づく発言や行動は、曖昧であったり、責任感のない言動に取られたりと、あまり肯定的には捉えられていない人の性格を成す一要素であると思う。但し、対象となる物事の本質を知り、そして理解をした上で話が出来ている時間というのは、全ての会話の中でどれ位の割合を占めるのであろうか?ある事象について突き詰めて考えると、また、知識を深めていくと、その対象物に対して自分が如何に無知であるのか、如何に対象物が複雑怪奇であるのか、ということを思い知ることがあったりすると思う。
そのような時に、まごまごと自分の無力を嘆いたところで先には進まない訳である。例え知らなかったとしても、人々の経験で養われ、そして、組織等で共有されたノウハウに基づいて、分かったフリをしながら進むべき道や措置の程度の加減などを判断しながら先に進むことができる、という能力が求められることが世の中には多いと思う。
その能力についての議論はさておき、何かの権威を有していない人間の『何となく』、『そんな気』がする、というちっぽけな声の響きを無視して良いのであろうか?
以前にも書いたことがあるが、私は病院で見た出来事を良く思い出す。
数ヶ月入院した時に、廊下である初老の女性と話す機会があった。
彼女は、医師の指示する内容のリハビリを遂行する。
その措置を行う事による身体からの痛みという叫びを伏せて。
その結果、症状は悪化を重ね、彼女には改善の見込みが見えなくなる。
このように語るその女性の言葉が、どれだけの客観性を有しているのかは知らないが、言葉を含めたこの女性の外観から何らかの将来へのプラスとなる要素は一見では見当たらなかった。
彼女にとって愚痴のはけ口さえ見つけられればよかっただけのことであり、不満を感じながらもその場を何とかやり過ごして無事に退院して健康体を取り戻したのかもしれない。
但し、常に、何とか我慢すればよかっただけのこと、ということだけではないと思う。
病院で、患者は、論理的な医師への説明により物事を進めなければならない、という義務がある訳でないと思う。
自信がない。私が偉い人の前で言うのは、恥ずかしいし、失礼だと思う。
でも、私はそんな気がした。
体に感じた適切には表現できない曖昧なことを患者と医師の両者で拾い上げることにより、初めてプラス方向に向かうためのやり取りが始まるではないだろうか?
これは極端な例かもしれないが、どのような場面であっても、「気がする」という感覚の発生には、非論理に発生する言葉や絵図ではなく、何かしら、それの基となる原因や理由があるはずである。
何にも繋がりのない映像が浮かんできたのであれば、それは神からのお告げかもしれないし、そんな人は、当に常人とは違う天才なのではないだろうか?
Steve Vaiというエキセントリックな旋律を奏でる天才ギタリストが、夢の中に出てくる事象を曲のアイディアにしようと、耳にイヤホンをして音楽を聴きながら寝ることにより夢をコントロールしようとした、という内容の記事をある雑誌で読んだことがあるように記憶している。