ゴールデンウイークと言えば焼きそばである。
連休も終盤の少しの哀しさも混じった佳境に入り、祭りの時のように今か今かとワクワクしながら鉄板の前で待つあの時のように、今日は家の中に鉄板を広げて、家族皆で最後の楽しい時間を満喫されていることと思う。
ところで祭という言葉は、考えると意外と難しい気がしてきた。
簡単に言えば祈りを捧げる儀式と言えばよいであろうか。
ただ、近来よりこのような意味合いはあまり含まず、人々の集う楽しい催しという意味で使われることが多いのかもしれない。
例えば、さっぽろ雪まつりのホームページには次のような説明がある。
「雪まつりは、1950年に、地元の中・高校生が6つの雪像を大通公園に設置したことを きっかけに始まりました。雪合戦、雪像展、カーニバル等を合わせて開催、5万人あまりの人出で予想以上の大人気でした。以後、札幌の冬の行事として市民に定着していくことになります。」
カーニバルという言葉は、宗教的な意味合いがありそうだが、
恐らくはここではそのような意味は込めずに、
人々が純粋に楽しむ場として、「祭」という言葉を使っているのであろう。
毎日の生活のその瞬間瞬間だけでなく、もっと楽しく喜ぶために作り上げられた祭という昔から伝わった場だけではなく、
心を紅葉させる催しを少しでも増やせたら、
ということなのであろうか。
ところで、町祭りを渡り歩くと、同じ人が鉄板の向こうで焼きそばを焼いているのを見ることがあるかもしれない。
だいたい収穫祭であれば、毎年の習慣であり、1年待てばまた来るのだが、
待てと言われると1年は長いもので、その瞬間は普段とは違う濃さを感じる人も多いのではないだろうか。
ただそこで焼きそばを焼く彼は、それが日常生活であり、
あんまり重々しく手間のかかりすぎるものであってはならないのかもしれない。
手軽でないと、日常的に、自分に、そして周りの人に人生の喜びを与えるのは難しいのかもしれない。