イスラム国 日本人拘束 マスコミ報道について

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二つの点を不可解に感じている。

①後藤さんが自己責任を宣言するビデオを何度も再生する理由は?

②命を救いたい、という意識を高める効果がある可能性があるため、後藤さんの実績を示す映像を流すのはよい思うが、後藤さんの存在に偏りすぎてはいないか?

後藤さんが自分を証明するためであろうか、パスポートを示しながら『何が起こっても、責任は私自身にあります』と話している姿を映したビデオがある。

僕は感覚的にこのビデオが頻繁に流されている気がする。
また、私の家の者もそのように感じている。

実際に統計を取れば、もしかしたら、報道時間の中で、このビデオの占める割合は、大したことはないのかもしれないが、ニュースとして何度も放映が必要な理由はあるのであろうか?

私は勝手に想像しているだけではあるが、後藤さんがこのビデオを残した意図は、もし死んでしまった場合の遺言として、撮影したのではないであろうかと思っている。

『まぁ、必ず生きて戻りますけどね』という家族への想いを不器用に混じえて残したメッセージであり、また、『皆さんもシリアの人たちに何も責任を負わせないでください』とは、ジャーナリストとしての役務を踏まえた上で、自分の行ってきた行動の目的に反する方向へと世間が進んでいかないようにするために、『何があってもシリアの人を恨まないで欲しい、人々が平和に暮らして欲しい』という思いを人々に伝え、できれば誰かに託したいという思いのメッセージなのではないだろうか?

二人が解放されていない今の時点で、このビデオを中心の一つとして添えてメディア上に話を広めてしまうのは、後藤さんの意思に逆らう可能性があるのではないだろうか?

後藤さんがイスラム国に向かった理由とこのビデオで語られる決意により、人々は後藤さんと湯川さんと2人の間に身分の差があるように思い込ませてしまう可能性があると思う。

まず、多くの人は一般に公開される形の肯定的な記録があまりないことが多いと思う。

しかし、後藤さんには、そのような外に披露するに相応しいと社会的に評価される記録があり、その記録を用いて素晴らしい人間であることが明瞭な形で示される。
そんな偉大な人が他の無名の人間を救うために命を賭ける姿が何度も流され、そのうちに、後藤さんは英雄の姿として、視聴者の間に自然と描かれるようになる。

政府が目的として宣言し、及び多くの人々が願っているのは、人の命が救われることである。

『人命を救う』

これが達成されるのは、湯川さんと後藤さんを拘束の身から生きた状態で解放された時であろうか?

マスコミは、メディア上に広報する何らかの価値があると判断すれば、解放後も彼らの生命のドラマを追い続けるかもしれない。
しかし、多くの人にとっては、身体の救出をもって人命が救われた、というドラマは完了となるのではないだろうか?

では、本人はどうであろうか?

救出されたことは人生の大きな事柄であり、分岐点となる重要な事件となるであろうが、まだまだ長く命が維持された状態が続くわけである。

多くの人が第一に重要だと判断している命は、人生とは同じ意味、重みを持つことでしょう。

湯川さん、後藤さんも他の人と同じように、今後も人生という貴重な局面を今と同じように背負い、歩いて行くわけである。

そこで、マスメディアで提供される情報に接し、心配になってしまうのは、湯川さんが後藤さんに命を失うというリスクを負わせた人であり、後藤さんと比べると生命の価値が相対的に低い人間だ、と思われてしまいはしないか?ということである。

後藤さんがイスラム国に向かう前に撮影したビデオ。

その映像を後藤さんの一つの典型として再生してしまうと、例え音声がなく言葉が聞こえなくても、パスポートを見せるその姿から、それが何のビデオかはもう頭に刷り込まれているであろう。

その映像を利用する理由は?

もし死んでしまっても、仕方なかったね、という気持ちを持ちやすくするためか?

もしくは、人命第一と言っても、責任の所在を明確な事実としてマスメディア上に記録しておきたいのか?

それとも、英雄を作り出したいのか?

後藤さんの意図を汲み取るどころか、反対の方向に気持ちが動いていくようにマスコミは人々を誘導しているような気がしてならない。

出発直前のビデオは、一回放映すれば、それで十分であり、繰り返し何度も放映する必要はない。

責任の所在がどうこうという前に、人を救いたい、というのが、盛んにマスコミを含め多くの人が唱えていることであろう『人命第一』ということなのではないだろうか?

あえて、今の時点でビデオに籠めた思いを伝えるのであれば、無意識に頭に刷り込ませるが如く、『責任』という言葉を象徴する映像を流すことではなく、『亡くなっても、現地の人を恨まないで』という思いだけではないだろうか。

また、マスコミの報道内容に関わらず、湯川さんが生還後に責任を問われ、責められることは目に見えていると思う。

その是非はともかく、そうなることが恐らく多くの人の間で明確でありながら、後藤さんが責任を宣言するビデオを放映すること。これは、マスコミは、湯川さんに対する無言の圧力を加えていることであり、また、共同体からの集団リンチを加える体制作りをしているかのようにも私には写る。

今の社会情勢から想像するに、湯川さんは、今後、人々の非難の中、生きていくことを受け入れざるを得ないのではないかと思うが、無言の圧迫を加える社会作りを助長する活動をする必要はないと思う。

今の報道活動を、『人命第一』という活動とは思わない。

湯川さんの命は、人質から開放された時点で終わるわけではない。

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