年越し、新年を迎える

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物理的なものであるのか論理的な創造物であるのか、
はたまたそれは想像物であるのか知りはしないが、
それを越えると年というものが到来するか、もしくはそこへと辿り着くそうである。
「年を越す」
越すというのは
山であったり何かしらの障害物を目の当たりにして発生する動作であったりする
というイメージが個人的にはある。その日の夜が、果たしてその前の日の夜と比べると
どのような差異があるのかは正直言うと僕は理解できていないのだが、
とにかく越えるものとして定義されているようである。
「一般的」
その言葉はとっても不思議な言葉である。
僕が今から言うことが一般的な言葉であるのかどうかは分からない。
兎も角僕の薄っぺらの頭で想像してみると、
恐らくは、例えその本人がそのように過ごした経験はなかったとしても、
その本人は一般論として次の点景を描くことが許可されているのではないかと思う。
「一般の人の典型として日本の大晦日には家族で紅白歌合戦を、
そしてそれが終わるとゆく年くる年を見ながら除夜の鐘を聞き新たな年を迎える」
除夜の鐘というのは 寝床の中遠くに響いているのを、耳を澄まして聞いたことがあるような記憶があるが、
実際に見に行ったようなことがあるような気もするし、
見に行ったことを想像したことがあるだけなのかもしれない。
実際の所、僕が過去に鐘が鳴っている現場を見たことがあるのかどうかは思い出せなかった。

 

大晦日の夜に百八回の鐘を鳴らすというのは、
日本仏教の行事であるようある。

2012年より住み始めた現在の住所の側にはお寺があった。

前の年にはそのときに何を考えていたのかは何の思いでもないが、
大晦日の夜にそのお寺に行かなかったことは覚えている。
今年は折角であるので見に行ってみようかと心に決めていた。
「大晦日」
冬の休みに入ると、
そのタイミングにあわせたように風邪を引いた。
薬の力を借り何とか喉の痛みと鼻から擦り落ちんとする水を止めようと試みたが、
そのまま先へと進みその山を越えなければならないようであった。
人はいつまでその土地にいるかは分からない訳であり、
今年というのか来年というのか正確にはどのように言えばいいのかよく分からないが、
兎も角今回が最後かも知れないと思い、
目だけを空気に触れる格好を整え、僕は外へと出た。
「人間的な全ての気持ち・人らしさを殺す行事」
百八の煩悩を抹殺しようという除夜の鐘というイベントに対し
ある典型を示すものとしてそんな言葉を聞いたことがある。僕は多くの人が集まるものであるとは知らなかったのであるが、
お寺に着くと多くの人がそこに集まっていた。
確かに僕が蒲団から這い出す気持ちは更もなかったが、
両親が初詣と称して近くの神社に行った年があったような気もしたので、
一般的に新年の夜中に路上に人が集まるものだったのかも知れないと思った。恥ずかしながら私は知らなかったのであるが、
除夜の鐘というのは希望者であれば誰もが叩くことができるようであり、鐘に向かって行列ができていた。 

僕がその寺院に着く前から鐘はぽんぽんと鳴っており、
また、僕がそのお寺にいる間も継続してぽんぽんいう音が宙を響いていた。

その鐘へと並ぶ列を見て、果たして百八人目が着たら「はい終わり」とお詫びを申し上げるのか、
新年に当たり全ての希望者の悪の根を断ち切る措置を遂行させてあげるのかのどちらになるのかは興味深かったが、
恐らくは全ての方を受け入れるぐらいのことはするのであろうと思った。
そうはいっても結論を待って見るまでの興味はなかったため、
お寺を離れて次は近くにある神社に行ってみることにした。神社は鳥居を潜り階段を登と境内へと続いている。

「初詣にはコンナに人が来るんだ」

警備員がちらほらと目の前に現れ、
鳥居の前まで辿り着くと、階段には想像だにしない人の行列があった。

上へと進む手段はないかと行列に近づいてみると、

「お参りですか?」

と杖を右手に持つ私を心配してくれたのであろうか警備員より声を掛けられた。

「いや大丈夫です」

何が大丈夫で何が大丈夫でないのかは分からないが、

「興味があるので境内に進みたいたいのですが。。。」

とは聞くのは何だか勇気がなかったのか列を作りお参りをする人を前にしては失礼な気がして、

僕は逃げるようにそこを離れた。
「残念だが家に帰ろうか」神社の裏から境内へと進むことはできる。「その道がもしかしたら今日は閉鎖されているのかもしれないが、
何か見えるかもしれないから念のため行ってみよう。もし中に入れなくても中に入れない事実を見届けておけば後で後悔はしないだろう。」神社の敷地を横に回る坂道を先へと進む。遠くから祭囃子が聞こえてくる。

新年を迎えるときにコンナ音が聞こえてくる光景が広がっていることは知らなかった。

裏口へと辿り着く。

どうやら誰かがそこを遮っているわけではなく、
初詣で並ぶ人の横から境内へと入り込むことができるようであった。

笛の音が響く境内へと近づくと能面を演者が人々の横を舞っていた。

僕にはその拍子と舞がどれだけお参りをする人の心を揺さぶっているのかどうかを想像すると
極めて不思議な光景に見えた。

長らく待った出番が来て神の前でちゃんちゃんと手を合わせると、
だいたいの人は仮面に目を向けることもなく横にして社務所へと向い
絵馬や熊手を買い、また恋人、友達と占いの紙へと笑顔を向けていた。

兎も角、その夜は街に人が溢れていることを知った。
「いや、本当に溢れているのであろうか?」
もう一つ近くにある神社に行く。

 

そこも人の行列があった。この人々は一般なのであろうか?

今この暗闇に浮かぶ家の中、ほとんどの人が外に出て鐘をたたき、またお参りをしているのであろうか?良くは分からないが、若しかしたら殆どの人が家の中にいるのかもしれない。

この僕の目の前にいる人たちが世の中の人の1パーセントなのか、それ以上なのかそれ以下なのか、
どれだけの割合を占めるのかは全く分からないが、
人が輪になり集まることは恐ろしい力を持つ可能性があるかもしれないなあ、と思った。
僕は日常生活で格段に多くの回数に渡りその日に訪れた神社・仏閣を訪れていると思う。
恐らくは今この夜中に姿を現した人の大多数よりも。僕の訪問は参拝ではなく、
ただの散歩であり、また興味本位であるだけなので、
お祈りを重ねた回数は、訪問した回数を比べても仕方なく
何時まで経っても僕はこの人たちに追いつくことはないのであろう。

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